日吉大社、建部大社

前日までに艦これ19冬イベがラスダン前まで到達したので、思い立って帰省することに。12月最後の日曜ということもあり、新幹線は全て満席なのはわかっていたので、自由席で適当な列車に乗り、デッキで立ったまま京都へ。そこから湖西線で4駅、比叡山坂本で降ります。といいつつ、疲れで眠ってしまい乗り過ごして戻るはめに。

日吉大社は全国にある日吉・日枝・山王神社の総社であり、軍艦比叡の艦内神社でもあります。縁起などはWikiなどにもありますが、比叡山山岳信仰から発しつつ、延暦寺の守護神として天台宗とともに全国にひろまったらしい。

最澄にとって、「山王」とは山の地主神を仏教的に表現したものであるといわれる。最澄が著したと思われる文書には、神名ではなくほとんど「山王 が使われており、あえて「神」とは呼ばなかった点に、仏教徒としての配慮がうかがわれるという。このような、最澄による「山王」の扱いが、後に、神仏習合の「山王神道」の成立を導いていったともされる。

とのことで、なにやらもやっとした形で神仏習合がなされていったみたい。

ちょうど居合わせたバスに乗り、バス停3つほどで神社に着く。歩くと15分ほどですかね。さらに少し行くと比叡山に登るケーブルカーがあります。境内はかなり広い。西本宮、東本宮と二つに分かれており、それぞれに摂末社を含む複数の社があります。大きな朱塗りの鳥居をくぐると砂利敷の参道が続く。初詣の準備で神札授受のためのテントが並んでいました。神様の使いである猿を入れる檻があったり、大威徳妙王が宿るという石があったり。

西本宮の大きな楼門をくぐると、中央に大きな拝殿と奥に本殿、といずれも大きな社殿が建っています。屋根は曲線を描いて大きく迫り出し、ところどころ雪をかぶっています。拝殿の入り口が開いていたからか、威容があるのだけど参拝客に対して懐を開いている、不思議な感触でした。

奥を抜け、山の裾を伝うように参道を歩き、いくつも連なる社を順にお参りしていきます。信長の叡山焼き討ちの後、江戸時代に再建された社殿なのですが、いずれも綺麗で惚れ惚れしてしまいます。特に東本宮は本殿が国宝だったり奥まったところにあったりで、雰囲気ありました。

小雨ぎみなこともあり比叡山は次の機会に。京阪坂本比叡山口駅から南へ下っていきます。京阪大津線沿線には、近江神宮三井寺石山寺と名所が並ぶのですが、時間がないので本来の目的地である近江国一ノ宮の建部大社を目指します。

唐橋前駅で降り、瀬田の唐橋を渡ってさらに数分歩くと、建部大社はあります。瀬田の唐橋といえば、やはり古田織部千利休の擬宝珠のエピソードですな。一個一個作られた時代が違うそうで。ただ見る限り乙なものはありませんでした。

建部大社は日本武尊を祀るために建てられたこともあり、皇室との関わりを紹介するテントがあったのが印象的でした。本殿は特に萱葺の屋根が綺麗。裏に回ると、菊花石というのがあります。石の表面にある石英(との説)の文様が丁度菊の御紋のように見えるのですが、成因はいまだ不明らしい。あと何故か手水舎に人感センサーがついていて、手を潅ごうとすると何やらしゃべりだすのが新感覚。

浦賀近辺:走水神社、村雨&峯雲慰霊碑、比叡鎮魂碑

この日は、よこすか芸術劇場で開催される「響け!ユーフォニアム」の定演があるので、折角なので昼に浦賀近辺の艦これ関連史跡を訪れることにしました。

まずは、JR横須賀線衣笠駅で下車し、比叡の鎮魂碑に向かいます。はまゆう会館の手前を右に折れたところにある光心寺の境内にあります。といっても碑と供養塔があるだけではある。ワレアオバさんによると、本堂の中には乗組員の位牌があるそうで。

昼食をとったあと、衣笠十字路に向かいます。バス停は南に下りた少し先にあります。バスは、衣笠さんの名前の由来となる衣笠山の山間を走るので、上り下りがあります。目的地は満昌寺。20分に1本ぐらいで運行しているYRP野比駅行きのバスに乗ると最寄まで行けます。または10分に1本ぐらいあるバスで衣笠城址で降りて歩いてもすぐに着きます。

満昌寺には、直近の冬イベで実装が予定されている駆逐艦峯雲の慰霊碑があります。墓地の中の高台にある赤御影石に艦名が彫られ、両脇の御影石には艦歴と乗組員名簿が彫られています。すぐに出会えるよう手を合わせてお願いしました。ちなみに、バス乗車時間、待ち時間、寺までの徒歩などどれも5分くらいで割りにすぐ着きます。なお、峯雲慰霊碑への行きかたはやはりワレアオバさんのページを参考にしました。

次に村雨に慰霊碑に向かいます。衣笠城址のバス停からJR横須賀駅行きのバスに乗り、横須賀中央駅京急に乗って浦賀で降ります。衣笠から浦賀や30分ほどですかね。時間はあったので浦賀ドックに行ってもよかったのですが、丁度観音崎行きバスが居たのですぐに向かうことにします。浦賀ドックは折角なら公開の時期にまた来ようかと。

鴨居のバス停で降り、砂浜沿いの道を5分ほど観音崎の方に歩いて横道に入るとどんづまりに慰霊碑があります。デザインは峯雲と同じ。やはり手を合わせイベの完走を祈ります。

 次に衣笠の艦内神社である走水神社へ向かいます。観音崎から横須賀へのバスの途中にあるので、ふたたびバスに乗り観音崎に向かいます。観音崎では岬の海沿いを歩いたり灯台に登ったりしました。対岸に工場の影が見え、大きなフェリーが行き交い、まさに海の玄関といった感じ。開港してすぐ灯台の建設を求められたのも納得です。岬の他の場所には砲台が残っているらしく、冬場でなければ散策もいいかも。案内ページはこちら

 走水神社は最寄バス停のすぐ目の前にあります。初詣の準備が始まっており幟が立っていました。社務所はありますが人の気配はなし。急な石段の上に本殿があります。また脇には、ご祭神の一柱である弟橘媛命を祀る像や石碑があります。弟橘媛命といえば、日本武尊の后で彼の東征の際に荒れた海を収めるため身を投じたのですが、それが丁度この辺りなんですかね。次のバスまで10分ほどで時間があまりなかったので、境内を見て周ることができませんでした。

 バスで横須賀中央まで出て、時間をつぶし定演へ。席が三階でU字型の座席列の端のほうとひどかったのだけど、ホールの音響がよくて案外聴けました。

 

11/25 岐阜近辺の神社から犬山城、香嵐渓

この日の目標は国宝犬山城と紅葉で有名な香嵐渓。すぐ目の前の金華山の頂上に岐阜城が見えているのだけど、時間がないのでスキップ。その前に行きたい神社もあるので、6時半に宿を出てJR岐阜駅に戻り、そこから大垣方面の列車に乗ります。

美濃国一ノ宮の南宮大社は、大垣と米原の間にある垂井駅から歩いて15分ほどのところにあります。駅前には案内が何もないのですが、しばらく南に歩くと大鳥居が見え、さらに先に行くと小山のふもとに神社が見えてきます。広い敷地の先に朱塗りの門と主殿があります。江戸時代のもので重要文化財とのことですが、細かい意匠もきれいに残っています。関が原近くということで絵馬を掛ける柵には「天下分目難関突破」と書かれた板が掛かっていました。

倉庫のような建物の壁には、鋤や鍬や鎌など農作業で使う金物が木札に貼られて供えられていました。南宮大社の主神である金山彦命は鉱山の神様で、全国の鉱山と金属業の崇敬を集めているらしいです。なお、宝物殿には長船の大太刀や日本に5本しかないという三条の太刀などが納められているらしい。

早朝だったので社務所も開いておらず、摂末社がある山のほうを少し周ってすぐに戻ることにします。山の方には関が原のときの安国寺恵瓊毛利秀元の陣地跡があるそうです。

岐阜に戻ってまた長良川方向のバスに乗り、その手前にある伊奈波神社へ向かいます。前日も思ったのですが、岐阜駅前のロータリーがとても立派。夜は青色のLEDでライトアップされていて綺麗でした。長良川方向は5分ほどに1本バスがあり、日曜の朝なのに人の乗り降りも多く、市民の足になっているようです。長良川近辺も散策するにはあまりにそれぞれの観光スポットが離れています。長良川が「僕らはみんな河合荘」の聖地であることから、河合律ちゃんを探してきてくれと密かに命を受けていたのですが、とても探しきることはできない。捜索にはレンタサイクルが欲しいところです。

 伊奈波神社は、尾張国三ノ宮であり、長良の艦内神社です。神社はバス停から5分ほどいった山のふもとにあります。本殿までずっと坂になっていて、山門の手前の坂道に七五三に訪れた参拝客の車が多く停まっていました。山門もその手前にある神橋も古めかしくて趣があります。そういえば、愛知・岐阜の神社には、どこも神橋と神馬の像がありました。他のところでは特に目につくこともなかったんですよね。京都ではどこの神社に行っても、猪が神様の使いとして祀られていましたし、地域性ってあるんですかね。

参拝の前に手水で手を清めようとして柄杓を見ると、底に奉納した方の名前が書かれているのですが、12本のうち3本が河合さんからのものでした。調べると、河合姓はとくに愛知・岐阜に多いらしい。「~河合荘」にこんな裏ネタがあったなんて。リアル河合律ちゃん探せばいるんじゃないのこれ。

さて、帰りのバスを名鉄岐阜で降り、犬山城へ向かいます。名鉄各務原線で1本で行けます。なんとなく犬山駅で降りてしまいましたが、距離的には犬山遊園駅のが近そう。ただ、城までの通りが賑わっているので結果的に犬山駅でよかったかも。11時すぎだったので、昼飯時ではあるのですが、後の時間も気になるので城に向かいます。

犬山城は国宝ですが、わりと最近(2004年)まで城主がいた(個人所有)ことで有名です。その城主である成瀬家って、成瀬正成の子孫なんですね。成瀬正成といえば「境界線上のホライゾン」のマルガ・ナルゼの元ネタです。境ホラ完結おめでとうございます。それはさておき、そこまでの歴代城主もなかなか著名人だらけです。天守閣に登って歴代城主のリストを見て、犬山城どんだけやねんと、思いつつ、天守閣からの眺めにここが徳川にとって西を睨む重要拠点だったというのにも納得できたのでした。ただ、城の周囲には郭など当時を偲ぶものはあまり残っておらず、興ざめな感も否めないです。

 犬山城から犬山遊園駅の途中には国宝の茶室如庵があります。敷地の有楽苑の名前の通り、織田有楽斎のもので、元は建仁寺横の正伝院にあったのを何度か移築し今はここにあるらしい。半年前の茶の湯展で見た待庵の復元やら映像、あるいは過去に見た茶室と比べて息苦しい感じがなく、割と面食らったのですが、Wikiの説明にある、

二畳の小間と違ってゆとりがありかつ緊張感を失わない室内空間は、「二畳半、一畳半は客を苦しめるに似たり」と言い切った如庵・有楽斎の面目躍如と言うべきだろう。

を見て妙に納得。わりとしっかりと見ることができて案外楽しい。如庵だけでなく、有楽苑全体に庭の造りも他の茶室も作意が行き届いていていい場所だと思います。

 さて、ここから香嵐渓に向かうのですが、事前に調べたところ香嵐渓までのバスが出ているのは、豊田市、八草、浄水、東岡崎の4駅です。このうち浄水からは1時間に1本、他は2時間に1本です。ただ、犬山からの便のよさと直近のバス発車時刻を見て、豊田市から行くことにします。

豊田市だと、犬山線新鵜沼豊橋行の特急があるので、知立まで一本で行けるんですね。40分待ちとなるけど、昼飯食べればいいだろうと、駅を出てバス停に行くと、乗り場案内に数人いて英語で説明を書いたスケッチブックをかざしていて、これは何やらやばいとファーストフードで急いで食事を取って戻ると、さっきまではなかった待ち行列が出来ている。その半分以上は海外の人でした。さらに案内の人によると、道路渋滞のため香嵐渓には2時間かかるとのこと。これはもしかして今日帰れないのではないか、と帰りのバスを調べたり、運賃を払えるよう帰りの分もあわせてお札を崩したりしているうちに、待ち行列はどんどん伸びていく。運よくバスでは座れたのだけど、最終的に乗れない人も居ました。

バスは途中まで順調でしたが、道が一本になる足助追分の手前から大渋滞。あまりの動かなさにみんなバスを降りて歩き始める。約20分ほどで香嵐渓に辿り着きます。渓流沿いの小山の山腹を紅葉が連なっています。それにしても人が多い。

橋を渡ると、紅葉を視界いっぱいに収めながら、山の斜面を歩くことができます。まだ少し早かったか緑のままのツツジもちょいちょいありましたが、それでも中々の絶景です。山の上にあるお寺の境内は秋の京都のような趣がありました。3連休はライトアップがあるとのことで、日が落ちてくると根元に用意された照明が紅葉を照らし上げます。ただ、このライトがオレンジなので、紅葉もありえないほどにオレンジに輝いていて、ドーピングはどうなのよとちょっともにょっていました。

 さて、問題の帰りですが、バスが予定時間に出る保証がそもそもなく、出てもずっと渋滞で、どうなるか全然わからない。とりあえず一本道になる交差点の方に歩いていきます。途中の停留所で人が多く待っていたので、しばらく居るとバスが来たのでとりあえず脱出することが重要なので乗り込む。東岡崎行きでした。1時間半ほどかかって到着できました。

名古屋に戻り、帰りの新幹線まで1時間ちょいあったので、仲間内でちょっと話題になっていた大名古屋ビルヂング地下の名古屋コーチンのお店で親子丼を。帰りも指定席グリーン席ともに完全に売り切れていました。あらかじめ買っておいてよかったのですが、ちゃんと間に合ったのは割りと運で、いつも通りの綱渡りな旅でした。

11/24 徳川美術館とか名古屋をあちこち

7時に朝食と言うホテルを急かして、なんとか7時半の特急に間に合わせる。この次が9時なんですよね。

岐阜から高山を抜けて富山へ到る高山本線は、木曽川沿いに山間を走るのだけど、様変わりする渓流の景色がいい感じです。風景がライン川に似ていることから「日本ライン」と呼ばれているらしい。特に、この頃は水面から立ち上る蒸気で川辺が白く煙り、幻想的でした。

まずは、尾張一ノ宮である、真清田神社に向かいます。熱田神宮が一ノ宮ではないのですね。なんでも真清田神社の働きかけがあったとか。国府に近くいろんな経済活動(服織物や農業)の神様を祀っているから、ということのようです。中世の頃は荘園を多く持っていたり、徳川義直らの崇敬を集めたりしたようですが、戦中に焼失したこともあり、今では普通に大きめの神社、という感じでした。

一宮を発つと、次は清洲城へ向かいます。名古屋の方向に線路沿いに20分歩くと川の先に天守閣が見えてきます。天守閣は模擬天守で、もともとの城は川の反対側にあり、しかも城跡はJRの線路で分断されているとか。清洲公園も城跡みたい。反対側の清洲古城跡公園にも積まれた石があるのだけど、これは城関係ないのかも。ただ公園内には城があったことを示す石碑があります。

この時点でちょうど昼前。名古屋城に行くことも考えたのだけど、丁度天守閣を木造復元中とのことで、ひつまぶしを食べることにしました。名古屋駅のうまいもん通りにある、まるや本店で2時間並んで食べました。まあ、美味しいですが、これうなぎが多少悪くてもわからんのじゃないかとか、お茶漬けにしたらますます良し悪しはわからんのでは、とか思いましたが、まあ今回の旅ではそれもまたよし、かと。しかし、名古屋駅は迷うね。

続いて徳川美術館に向かいます。位置は、栄の少し先といったところでしょうか。駅の端にあるバスロータリーから基幹2系のバスに乗り20分ほどかかります。このときの特別展は「源氏物語の世界―王朝の恋物語―」、企画展は「徳川慶勝の幕末維新」。がっつり見るつもりで覚悟を決めて行ったのですが、どちらも期待を越える素晴らしい展示でした。刀剣などの収集物、初音の調度など由緒ある宝物、加えて旧蔵する膨大な書物(蓬左文庫)が、他とはちょっと違う奥行きを与えています。源氏物語の展示では、有名な源氏物語絵巻の実物もさることながら、河内本や青表紙本といった写し、原中秘抄から玉の小櫛といった注釈本、派生した王朝物語、江戸時代に流行した見立てもの、などなど源氏物語に関わるものをすべて見ることができました。

徳川慶勝についてはこれまで全く知らなかったのですが、激動の人生と御三家の将軍らしからぬ個性が凄く面白いです。

  • 日米修交通商条約に対し、呼ばれてないのに勝手に江戸城に登城し井伊直弼を糾弾する
  • それを咎められ2年ほど謹慎を食らう。その合間、昆虫や草木の標本を作ったり、写真にはまって自ら道具を揃えて江戸城やらを撮るようになる
  • 第一次長州征伐では総督を務める
  • 大政奉還後、新政府側につき諸藩・旗本の助命に走る
  • 維新後従一位に任ぜられ、藩知事になったり国立銀行を作ったりした

新撰組で有名な松平容保と実の兄弟で幕末は敵味方に分かれていて、晩年兄弟たちと一緒に写っている写真があるのですが、もう涙なしには見られない。この人主人公にしてラノベ書こうぜ。

徳川美術館を見た後は、横にある徳川園を散策します。紅葉を楽しむには少し早かったですが、意匠を凝らした庭の作りで十分楽しめました。

この後は市内も巡ろうということで、大須観音から万松寺に寄って、栄に上ります。万松寺は信秀の葬儀で信長が位牌に灰をぶちまけたことで有名ですが、今やただのビルでした。名古屋ではオタク系のショップは赤門通りにあるのですね。山本屋の味噌煮込みうどんを栄で食べ、そのまま名古屋まで歩きました。普通に地下鉄乗るべきでした。広小路をずっと歩いたんですが、オフィス街ぽかったりハイソなお店も多いのにわりと何処にも飲み屋があるのがなんか不思議な町並でした。あと割といろんなところに肉屋があるのは何なんだろう。

岐阜からバスで移動し、長良川温泉で一泊。

11/23 三河近辺の神社から下呂温泉

下呂温泉と愛知近辺の艦内神社、ついでに一ノ宮をいくつか巡ろうと2泊3日の旅行に行きました。

飯田線はハイキングないでたちの年配の方々でいっぱいでした。このまま天竜峡に行ってみたい誘惑にかられつつ、三河一宮で降ります。なお、豊川の次の駅なのですがICカードが使えないので、豊橋で切符を買うべきです。

砥鹿神社は三河一宮から歩いて10分くらい。こちらは里宮で、本宮山に奥宮があるらしい。なんでこんなところに神社が、と思っていましたが、山岳信仰らしいですね。駐車場を横にまっすぐな参道を歩いて門をくぐると、2つ社があります。一方は摂社のえびすさん、もう一方が拝殿です。そこそこ開けた敷地内には櫓も建っています。奥には自称日本一の大きさのさざれ石もあります。この時期だと七五三の参拝客めあてなのかおっさんたちが屋台の準備を始めていました。

といってそんなに見るものもなく、豊川稲荷へ向かいます。 

豊川稲荷は、佐賀の祐徳、京都の伏見とともに日本三大稲荷のひとつに数えられています。駅を出るといきなり狐まみれ。ロータリーの中央には飛び跳ねる狐の像が何体もいたり、参道沿いのお店にはそれぞれ等身大の狐の像が建っています。「豊川いなり表参道 なつかし青春商店街」の名前の通り、昭和レトロな町並でその多くがいなり寿司を食べられる食事処です。

豊川稲荷ってお寺なんですね。Wikiによると

豊川稲荷の「稲荷」とは、境内の鎮守として祀られる吒枳尼天(だきにてん)のことである。

吒枳尼天は、インドの古代民間信仰に由来する仏教の女神であるが、日本では稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるに至った。妙厳寺では「吒枳尼真天」(だきにしんてん)と呼称する。

(中略)

上述したように、信仰対象は「稲荷」と通称されてはいるものの、稲荷神そのものではなく、吒枳尼天である。

とのこと。境内はさすがの広さで、立派な山門や鐘楼、最祥殿と呼ばれる大きな書院が立ち並びます。踊りのイベントがあるようで法被姿の人がわらわらしていました。本殿は一段高いところにあり、ゆるい坂を上って参拝することになります。お寺なので拍手は打たず。

本殿の裏手には庭園があります。朱色の鳥居ではなく吒枳尼真天の幟が立ち並ぶ道を歩いていくと、奥に霊狐塚という狐の像が祀られている区画があります。林のなかの開けたところにお社と一緒に100体以上の狐の石像が納められています。こわい。

後が控えているので、名物のいなり寿司を食べることなく、岡崎へ向かいます。 

名鉄はこれまであまり乗ったことがなかったのですが、豊橋東岡崎知立ー名古屋ー岐阜がメインストリームで、そこから豊川・豊田市・犬山らに分岐する形なんですね。

東岡崎から岡崎城に徒歩で向かいます。歩いて10分ほどで、矢作川からの支流である乙川と岡崎城が見えてきます。復元した天守閣の他、曲輪は残っているのですが、観光地化しすぎていて、あまり当時の面影を感じることはないですね。天守閣裏の空堀はいい感じです。

岡崎城を出て歩いて矢作神社に向かいます。裏の大通りが東海道とのことで、そのまま歩いていくと、カクキューの八丁味噌工場があり、さらに矢作橋を渡ってすぐ、川沿いに上っていくと小さな神社があります。矢作神社はそのまま軽巡矢矧の艦内神社なのですが、土地名の由来からすると矢作の方が字はあっているようです。由緒を記した石碑によると矢矧の模型が奉納されているようだが、いかんせん社務所に人の気配はなく御朱印も得ることなく、名古屋へと向かうのでした。新安城知立と細かく乗り換え、特急に乗ります。

 当初は、名古屋へ行って昼飯を食べて下呂へ向かう予定でしたが、下呂って実は何もないんじゃないの? という気がしてきたところに、列車が神宮前に止まるということで、急遽熱田神宮に向かうことにしたのでした。

一の鳥居まで下り、ちゃんと参詣しようと参道を歩いていると、脇道にわざとらしい遮光式土偶の像が。台座に彫られた文字は「眼鏡の碑」。貼られた金板の由緒に曰く、「眼鏡業にたずさわる私達は、八尺勾■之五百津御須麻流之玉を造らせ給う玉祖命(櫛明玉命)を祖神として崇拝し、眼鏡の功徳に感謝しつゝ、生業にいそしんでまいりました(以下略)」。眼鏡の功徳に感謝し、心あらたに熱田神宮に参る。

本宮は思ったより新しい。伊勢神宮遷宮のときの材料を譲りうけて建造したらしい。横から裏に行けて、清水社から本宮の裏を通って一之御前神社に行く「こころの小径」が、雰囲気があるというか空気が清冽というか、いい感じです。

残りの予定を気にしつつ、急ぎ足で境内をまわり、宝物殿を見て、境内を出ました。名古屋でACTIの矢場とん味噌カツ弁当を買って、特急ひだで下呂へ向かいます。

  • 名古屋 14:48→下呂 16:29

 ホテルに行ったけど、フロントに人がいなかったのでw他の旅館の外湯に入り、戻って食事をとってまた別の外湯に入りました。ちなみに入ったのは小川屋と下呂ロイヤルホテル 雅亭です。泉質はちょっとぬめりがあるけど透明ですしそんなきつくもなく、わりと長く入れると思いました。小川屋は浴場に畳が敷いてあるのですが、まあいいように思いました。ただ、窓際で結露した水が冷たくてちとつらい。雅亭は露天風呂が最上階にあって、見晴らしがよかったです。

11/18 あんこう祭りな大洗

大洗はその気になればいつでも行けるが、折角ならあんこう祭りのときに行こうと思い立つ。

水戸で鹿島鉄道に乗り換えるのだけど、階段手前でICカード精算用のカードリーダがあるのでかざしておく必要がある。大洗駅ICカードでの支払いに対応していないので、忘れると面倒です。