ヱヴァ破が破るもの

あるいは、キャラの立ち位置から見ての新劇場版とテレビ版エヴァとの違い。超ネタばれです。

話のラスト、シンジがレイをサルベージするシーンは泣きそうになった。「私が死んでも代わりはいるもの」と拒絶するレイに対し、代わりなんていない! と言ってあげるシンジ。数多の二次創作者はそれを言いたくて自分で物語を作ってきたわけで。10年の時を経て、映像付きでそれを言ってあげるシンちゃんを見ることができたのは幸せでした。批判的に見れば、庵野さんが針を逆に振りすぎただけだとも言えるのだけど。
エヴァ的に見てもテレビ版と破とのキャラの対比は象徴的です。テレビ版ではシンジが一方的に取り込まれ何度も周囲にサルベージしてもらっていながら成長せず、最後に「ぼくはここに居てもいいんだ」で終わっていました。一方で、破では、シンジがアスカやレイに「わたしはここに居ていいんだ」と気づかせ、レイをサルベージする。破のラストは、テレビ版第弐拾話「心のかたち 人のかたち」を反転させたものでしょう。そもそも、キャラクタの基本的な立ち位置が違うんですよね。テレビ版ではどのキャラも、自分の中に居場所を作っていた。一方で破では居場所に不安を抱いている。「わたしには何もない」、という言葉はテレビでも破でも出てきたけど、見ているときの印象として、テレビ版では取り付く島もなかったのに対し、破ではそう宣言することでようやく自分を守っているようだった。
キャラ(あるいは他人)に対する眼差しが大きく違っているのだと感じます。みやむーや緒方さんにコス着せて実写で撮ってたEoEと比べると、キャラへの向き合い方が全然違う。10年も経てばそりゃそうなんだけど。シンジの行動にもそれが出ていると思います。テレビ版では主に他人によく見られるための行為だった。表層的というか。破での弁当を作ってあげるシーンは素直にいいなぁと思ったのでした。破ではシンジがそういう人間だというのがちゃんと伝わってくる。レイやアスカが速攻でデレるのもニヤニヤしながら見てましたよ。「楽しいこと見つけたんだ、楽しいこと見つけてそればっかりやってて何が悪いんだよぉ!」と叫んでたテレビ版のシンちゃんからかけ離れた行動だと言えます。
「ヱヴァ」はテレビ版エヴァのrebuild(あるいは歴史改変)という意味を持っているのは、エンディング後のカヲルの台詞からもわかるのだけど、レイやアスカに関する構成の変更にそれが現れている。シンジがゲンドウや周囲との関係性を確認するエピソードはほぼ忠実に残っているし、基本的なラインもしっかり踏襲している。一方で、レイやアスカの人格を損なうようなエピソードや慰み者にするようなエピソードは慎重に排除されている。なので、アスカはゼルエルさんの前に退場しなければならなかった。とはいえ、シンジ以外にエヴァパイロットとして劇をかき回す役割を持つ人は必要だったので、彼女たちの代わりにマリが用意された、と考えています。彼女は作劇の小道具であってシンジに介入する存在ではない。マリのキャラ付けが特殊wなのもそういうのと関係してるかななんて。

まとめると、「ぼくはここに居ていいんだ」から「あなたはここに居ていい」への変化が、「破」なのだと思います。

破でようやくシンジは物語の主人公たる資格を得たのだろうと思います。自分を認め他人のために何かをする。ただその根拠がいろいろとないのだけど、"Q"ではカヲルくんが何とかしてくれるのでしょう。ゲンドウとの確執とかも。かき混ぜ役としてマリにも期待。独眼竜アスカさんもお願いしますw

以下、エヴァ板とか見ながらつらつら思い出したことを書いてみる。
・パンフで、庵野さんの演出は演繹的、という言葉があった。確かにテレビ版に比べると、序も破も淡白に感じる。あるエピソードで緊張が増して次のエピソードに繋がる、というのを余り感じない。
・というか、キャラが浅い。四号機のあとサードチルドレン抹消の後、ミサトさんがシンジに自分の立場と重ねていた、と吐露するところとか、アスカやレイのおちっぷりとか。
・新劇場版の印象が違うのは、庵野さんが変わったというより、鶴巻さんが監督しているからでは。
・SDATの設定は燃えるんだけど、やっぱり軽い。ずっと25曲目と26曲目を繰り返していたのに、マリが来てから27曲目に進んだ、というネタはスレで初めて知った。
ゼルエルさんがラミさんほどの活躍じゃなくて残念。