第6回FBS「情報編集とメディア」 / 松岡正剛氏


朝からずっと講演を(別室で)聞いていた。刺激をうけたことを話したい。
フィードビジネス大変面白い。

研究者たちが、ビジネスモデルがどう進んでいるか知らなかった。
今日聞いてとても面白いと思った。こんなに進んでいるのか、と思った。

de-portal,コンシェルジュ
コンテンツが乗っているのがメディアではなくコンテンツそのものがメディアに
なるかもしれない、ということ。
Web 2,0の続きとしてではなく。その奥に核にあったものをメディア化する
可能性があると感じている。
そうだとすると、文化、社会、文明、メディアエーションとは何なのか、
その根本に迫る可能性があるものになっていくと考えてしまう。
コンテンツが増えたからフィードが増える。
そもそも、脳の中にあったのを外部化していったのが人間の歴史、メディアの歴史。
文化によって違ったりするけど、メタに見ると、全知全能のコンテンツというのを
人間は想定していた。
王の目、王の耳。一人の為政者によって全ネットワークを作ろうとした。
ジンギスカンのジャブチ。
日本でもあった。東大寺は、全国の国分寺国分尼寺のホスト。
実際には、お経のどこを読ませるかという指示を出していた。
手紙、手話、速記。
どうして手紙が生まれたか。どうして日記が生まれたか。
とくにプロトコルを持っていたわけではない。自発的。
それは世界中の星座が似ているのと同じ。線の輪郭を同じように発見している。
Web2.0のビジネスの多様性とは別に、かつてから人間の中に情報を似たような形で
まとめていく類似性との違い。
見たものを見たままにしていられなかった。メディア化。
我々の認知と表現の間には、知覚そものものが内属している。そういうのに従って
情報が発展してきた。
情報の半分は人間の知覚の相互作用とも考えられる。

手紙、日記、郵便、手話、数学など。
コンテンツを作っている道具なのか、コンテンツと道具とをわけないよき時代にあるものなのか。
その視点でWeb、コミュニティ、OS、をとらえていくと、
どうなのかな、と見ていた。

編集工学とは人間が情報をメディア化するときに何をしているのかを考えている。
そのプロセスは、パソコンの前に座る以前から始まっている。
アフォーダンス
机の上にマイクがある。マイクを取ろうとした瞬間、その手はマイクと一体になっている。
その間にあるものがアフォーダンス
ものと自分、情報を指し示そうとする、その過程で自らを情報化している。
ほとんどの動物も同じ処理をしている。
てんとうむしだって、葉の選び方、茎の位置、葉の形で情報は違ってくる。

Webはそういう見方からしてどこまで進化したのか。あやしい。
梅田さんの本にある予想されるWeb未来像
私がみるに、そういう進化の要素、仕組み、エンジンを持っていない。
そういうものではない。でないから広がって、爆発的に広がった。
美術とか、天才が生まれるとか、仕掛けがあるとか、そういうのが進化。
進化とは突然変異でエラーが起きること。
だとすると、進化というのとはちょっと違う。
しかし、RSSがくっついてでてくる新しいWeb、今日の勇ましい話を聞いて、
それは進化的だと思う。

でも、文学novelは2つから出ている
日記と説教。
最初に読んだやつが何かを思いついて文学になる

何かがあってそれを移しているのがWeb
日記や説教が直接素材、それが一旦メディア化して、生まれたのが小説。
イギリスで街中にあるコーヒーハウスがトポスとなり、そこで小説が生まれた。
同時に、広告も一緒に生んだ。株式会社も生んだ。
〜sといった同じようなコーヒーハウスが出来た。コーヒーハウスはダンジョンの
ようになっていて、一階は何もない、2階にコーヒーハウスという構造だった。
そこで、パーティが生まれて、政党ができた。
コーヒー、トポスが先。
そこにちらしを入れて、広告が生まれた。

それをジョン・ロールズは、ザ・システムズと読んだ

新しいジャンルを述べる、新規に生まれる場所があって、コンテンツができる。
それが社会の歴史
フィードは、これまで歴史上にあったコンテンツが生み出される場所としての
スタンスと可能性を持ったものになるだろうと思う。

ただその時に、Webの頭でフィードを考えていいのかなと思う。
あるいは検索エンジンが動いているからその結果がコンテンツといっていいかな
というとどうかなと思う
未来があるとすると、検索結果から始まるものではなく、その途中で突然変異で
生まれるものとしてフィードが出てくるような世界。
ページランクされる途中に急に殻を突き破るように生まれるような

コンテンツそのものを考えないといけない
コンテンツは何でできているか、ことば?
断片だけではない。センテンスも文法もある。
人間が自然言語処理したテキストがある。
このコンテンツが乗っている。今後も乗っていく。それが検索されるのはあたりまえ
フィード自体はメディアだと思う。
それを媒介にしてトポスの中で新たな小説や手紙や手話にかわるものがでること
だってありうる。
人間が原始時代にでてきたメディア化したいというすべてをフィードは思い出して
それをフィードかしたらいい。
過去、手紙は極めて定型的だった。和歌も。
シャンソンが日常会話で交わされているようだった。
そこに秘められているのは、そこから言葉が生まれるということ。
シャンソンのポータル、アーカイブが出来てからそれがフランス語になった
イタリア語もなかった。ダンテの新曲が出来てから。

de-portal
フィードされているたば、情報力が、方向性を示した、それが言葉を埋めだす。
ディミナコメーディア(?)
文化が生まれて、これじゃん、と言葉が生まれた。

日本は言葉がばらばら。
しかし、平家が熱望した物語が語られたとき、何かみんな感動しちゃった。
太平記を書いたころにはそのプロトコルが固まっていた。

大きく視点がわかれている。
Webは便利なんだからいい。ビジネスはそれでいい。
もう一つは、フィードメディアが予兆させる何かにかけること。
それはWeb的思考、Web進化論で解けない、何か。
オリジナルなフィードメディアとしてくくってもらえれば。
そうすれば、フランス語のように物語を語る言語が作られる。
英語もそう。アーサー王伝説以前英語はない。
物語、ナラティブが言語を作り国語をつくり、それを乗っけるものをメディアに
していった文化の歴史があった。
Webはそれ以上の力があった。力がありすぎる。
共同知が完全にシームレスになっている。コンテンツという考え方が、これまでの
歴史の形、物語の型をつくるものになっていない。
フィードがそうなれば面白い
それが各国とか民族とかに分かれるのかはわからない。
そうならないかもしれない。それは、9.11以降の我々の運命かもしれない。

物語の型がフィードの中に生まれる可能性があるとすると、
その型の中に人間のありとあらゆる伝達能力の最もプリミティブなものがあった。
鍵と鍵穴のように人間がもっているものを伝えるものになるかも。

そういうプリミティブな型は高速に使える。
日常の他愛もない会話。断片的な情報で、それまで共有しているバックグラウンドがあるのでないようをちゃんと拾える。
古事記、とかそういうのにもあった。それが国語を作った。
コンテンツ時代というのは正しいが、コンテンツそのものが過去のすべての情報編集の型が可能性が、
Webの上に乗っかるフィードに反映されると面白い。

こういう話が久しぶりに聞いた。
みんな目指しているけど、兆ししか見えない。
これがいい。
Web全能な時代で次の予兆を語れるというのがいい。

おまけに。今やっていることを紹介。
図書街:
図書をタグとみたてて、本棚上に街を形成している。
本棚は位置情報、棚の板情報。本は、その位置情報を持っていながら、コンテンツを持っている。
コンピュータネットワーク上にはそれにプラスしている。
NICTと一緒にやっている

もともと本棚は本のパッケージという考え方。
段がある、左、右がある、図書分類がある。
本の分類がそれぞれ街のエリアになっている。メディナみたいになっている。

今のWebにたりないもの
全部検索しないと駄目ということ。
セカンドライフは始めたかもしれないけど、きっとちょっと違う。
その中にもう一度、子供から憶えていくように
優位性の制限して、そこを基点に高速な連想検索が始めるような形。

Hitch Haiku:
千夜千冊を本にしてみたとき、本とWebとがうまく手を組めていないことを実感した。
どうも書物そのもののすごさとWebのすごさがつながらない。
もしかしたらfeedがそれをつなぐかも

遊び。webの中のコーパスが生まれる可能性が高い。
京都大学で作って、SIGGRAPHで発表する

俳句らしさのアルゴリズムを作り、「千夜千冊」でとりあげた個々の本の書評から
ことばを2つほど選ぶと、切れ字などのルールに基づいて俳句を機械が自動生成する。