周縁について

サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、そして20世紀のアメリカの小説(純文学・SF・ミステリー)は「ライ麦畑から落ちた」者たちを描いていた。
実際、文学はずっと周縁に焦点をあてていた。大江健三郎は、自身の文章創作の本で、周縁についてこう述べている。

周縁性に立つ側の人間、周縁性という条件づけにおいて「異化」されている人間を、文学的モデルとして積極的につくりだすこと。それはわれわれの文学の中心指向性、単一化の大勢を批評的に乗り越えるための、想像力の訓練である。

神話の役割は周縁との往還にあった。トリックスターとは周縁と中心を行き来するものである。現代でも冥界下りの構造をとる文学は多く見られる(「海辺のカフカ」ですらそうだ)。主人公たちは、神話の方法論のおかげで周縁へ赴き帰還する。

今はどうだろう。周縁を意識することはないように思う。ネットによって繋がることで周縁は周縁でなくなり中心は中心でなくなった(マクルーハンの「グローバルビレッジ」「島宇宙」)。あらゆる世界で繋がりの成立が最優先されている。「セカイ系」とは、繋がりによって周縁のなくなった世界の物語である。ツンデレは、デレることを運命付けられた、去勢された悲劇のなれの果てである。

実際に周縁がなくなったかというとそうではない。オタクもニートフリーター喪男非モテも、周縁だ。ライ麦畑から落ちた子供は、救助されるのではなく、宙に浮いたまま生きている。あるいは、いつまでも墜落し続ける。ゾンビであり天使。スタージョンが描いたキモメンの悲劇を彼らは味わうことはない。味わってもそれをネタにすることで救われる。そのために「こそ」繋がりが存在する。ライ麦畑から落ちた子供たちを引き上げる"権威"がなくなったから、墜落し続ける彼らは自ら繋がるしかなかった。自らを救済する"ネット"になったのだ。

繋がりの幸福は彼らのトリップを維持する。境界は中でも外でもないからその広さは無限である。セカイ系ツンデレも繋がりの幸福の成果物だ。白馬のお姫様を望む非モテは、それが仮想であることを知っている。その仮想が共同幻想であり交流に繋がるから、破綻することなく成立している。

中でも外でもないところにいる我々と、イマジナリーでもリアルでもないところにあるシンボルは、無限の広さを持つ周縁でネットを作る。大伽藍のような構築物となった周縁を記述する方法論を今の文学は持ち合わせていない。