「フラワー・オブ・ライフ」の小さな物語

フラワー・オブ・ライフ (1) (ウィングス・コミックス)フラワー・オブ・ライフ (2) (Wings comics)フラワー・オブ・ライフ (3) (ウィングス・コミックス)フラワー・オブ・ライフ (4) (ウィングス・コミックス)

2007-05-31 - さて次の企画は
上のエントリーに対し、「フラワー・オブ・ライフ」(以下FoL)は「ゼロ年代の想像力」と関係がない、という多くのブクマコメントがついているけど、FoLは確かにセカイ系な表現で不安を乗り越える他の作品への一つのアンチテーゼになっていると思う。とはいえ、多様性に注目するだけでは、よくわからない。それだったら「うる星」も「スクラン」もアンチエヴァってことになる。FoLの演出技法とどこを目指していたかが、ようやく自分なりにリバースエンジニアリングできてきた。以下、4巻のネタばれなので改行。




4巻での春太郎の病気が完治していないことが明らかになった後の、『彼は若い盛りに死んだ』という文を見つけるシーン、「俺は普通がいい」と吐露するシーンは確かにこの話の大きな転換ではある。でも「メメント・モリ」を語るだけなら、普通もっと違う構成にする。学園生活の描写は読んでいて本当に楽しいけど、普通は4巻まで引っ張らない。話の早い段階から個の不安を浮かび上がらせる設定を持ってくる。あるいは不安な心情を合間に挿入していく。あるいは普通、「初めて友達に言えない秘密をひとつ持つことになった」というところに着地しない。
この作品の登場人物はみんな変な人だけど、その中でも春太郎は特異な存在である。名前や性格、そして「白血病でした」という告白。作中でもしばしば、彼の短絡的で無神経な言動は他人に指摘される。彼の姉や翔太など周囲に対してとてもポジティブに振舞う。4巻まで彼は、死や社会的な約束から自由である。「天使的」ってやつだ。彼以外の登場人物は正直に生きていない。現実の我々と同じように何かを抱えている。彼の存在によってそれが悲壮感なく、むしろ愛すべきものとして描かれる。
作中では何度も創作行為が現れる。劇を演じ、マンガを描き、自己表現する中で、彼らの中の本当の自分の一部がみんなに共有されていく。フィクションを介して花を演じることで周囲を明るく照らす、というモチーフにおいて、春太郎の行動と表現活動は並べて描かれる。
そして、漫画を描くことやオタクとして欲望に忠実であることが、誕生日パーティでのアレンジメントに悩むとかか借りてた本を傷めて友達に嫌われたと悩むとか"みみっちい"(春太郎らが初めて持ち込んだ漫画のような)日常的な不安の表現、あるいは不倫や引きこもりといったあけすけに出来ないことと同列に描かれる。それらは、他人に言えない秘密、不安、個人の負の感情が、他者との関係において襞となって日常を豊かにしていく。"Flower of Life"といっていい。
個の不安から社会的参与への転換は、春太郎において最も劇的に描かれる。正直で短絡的だった彼が、初めて家族に嘘をつき、友達に言えない秘密を持つことになる。普通に生きたいと吐露し、髪を黒く染めなおす。ラスト前、翔太の後ろを歩く春太郎と、一人歩く春太郎が別のページで並べて描かれる。社会の中で普通に個としてあるというのは、そういうものなのだろう。
春太郎は、死の不安から遠くかけ離れ楽天的に正直に振舞っていた。その周囲で漫画や劇などのフィクション、あるいはコミケのような活動が描かれている。彼はFoLの中のフィクションの基準であり、創作行為と関係して描かれている。性格設定、中性的な外見などの造形からみて、彼はそういったフィクション的なものの象徴なのだろう。その彼が個の存在の不安を訴え普通を望む。天国的なエロスから個としてのタナトスへの転向、天使の墜落、それこそがFoLのキモである。
FoLを読んだとき演出意図は分かったのだけど、何を描こうとしていたのかわからなかった。「世界は大いに盛り上げるもの、か?――武田敦・涼宮ハルヒ・石川啄木 - 無事の記」を出張先のスイスのホテルで読み、次の日ローザンヌからジュネーブへ帰る列車の中で、ようやくFoLとエヴァがどう対立しているかに思い至った。
我々は今や天国的なエロスを過剰に有している。我々はネットにおいて春太郎のように振舞っている。ネットによって拡張された現代メディアが"天使主義的"であることはInterCommunication No.25 特集:テレプレゼンスで山内士朗氏が述べている。ネットによる宗教的人間への転向は、例えばNTT出版サイバースペース」内でN.スタンジェルが書いている。物理的な身体からネット上のメディアの拡張的身体に移植された我々は常に漠とした不安にさらされることとなる。太宰治の作品から拝借して言うなら、「トントカトン」という音が鳴り止むことがない。一方で、個としてのタナトスは天国的な(動物的な)エロスに隠蔽される。全としての不安に対し、「大きな物語」は意思から行動への転換のプロセスを拡大し世界に直に干渉する。セカイ系決断主義も。
FoLのまなざしの先にあるのは、「大きな物語」から「小さな物語」への転向だと思う。単に日常の賛美でも「メメント・モリ」でもなく。そのための、4巻の構成であり、春太郎の造形であり、(イケメンでも美少女でもなく"ふわふわぷにぷに"な)翔太の造形である。「大奥」でもそうだけど、よしながふみは、フィクションの力を持って現実とのギャップを作り、世界に横たわる溝を軽やかに跳躍してみせる。設定として明示化したり、説明的に叙述するのではなく、ただ描写してみせる。我々読者はそれに気づくことはなく、ただ何かが心の奥にひっかかる。そういうのがフィクションを創作するってことなんだろう。
将来に対する漠とした不安・諦念・退屈に対抗できるのは個としてのタナトスなのだろう。ただそれを表現する方法はとても限られている。FoLは「小さな物語」の可能性を見せてくれていると思う。

(追記)
そういえば、サイバラの「ぼくんち」もそういうのを描いた作品だった。BSマンガ夜話でとりあげられたとき、「ぼくんち」には色んな種類の人間のクズ(という表現をしていたか憶えてないけど)が出てくる、普通の人は人間のクズの中に違いがあることはわからないけどサイバラはそれが分かっている、「ぼくんち」にはそれが描かれている、そこがすごい、てなことを誰か(多分岡田斗司夫)が言っていた。ただ、普通に個のタナトスを列記しても、悟りとか神様とかに行ってしまう。そうすると、大きな物語や動物的な物語にはかなわない。群像劇であることそのものでは、エヴァ的なものに対抗できない。FoLは、春太郎のようなフィクション的な登場人物を設定することでエヴァ的なものから跳躍できているけど、その手法をそのまま方法論化してもすぐに消耗してしまう。むしろどこにフィクションを設定するか、という点でFoLはとても参考になると思う。