未来心理研究会 公開討議「モバイル社会における技術と人間」

斉藤先生の、「ユビキタスは無意識を二重化する」という部分と、それに続く関係性とコミュニケーションの違いの議論はとても刺激的だった。一方、メディアが遍在化しているのでメディアが弱体化しているというのには半分賛成できない。まぁ確かに「メディアはメッセージである」というほどメディアごとの特異性が失われているのは確かだけど、一方であらゆるコミュニケーションにおいて、元メディアを模倣する形で象徴化と再構成のプロセスが起こっていると思う。

和田先生の、権力によって人が分離されているのでケータイによる繋がり感が前景化している、という問題提起はものすごい勢いでみんなに突っ込まれていたけど、今の過渡期的状況の認識としてはありだと思う。

欲望を持つことを欲望するとか、教育への期待とかは、いつもの論法なんだけど、それもまた近代的な価値観の名残なんじゃないかという疑念をぬぐえない。


とりあえずメモを貼り付けておきます。

(追記)
堀内氏より、自身の発言についての訂正を頂いています→http://trickystar.blog59.fc2.com/blog-entry-47.html
宮台氏のサイトで、関連する文章があげられています→http://www.miyadai.com/index.php?itemid=418

いつもの断り書き。以下はリアルタイムでのメモであり、講演者の真意を正しく記述できている保証はありません。

鼎談:

どういうことを考えて議論をするべきだと考えるに至ったか:
携帯電話の開発の歴史
・小さくなっていくこと
・多機能化
・サービスのネットワーク化
ユビキタスサービス
日常の振る舞いのなかで機械がきっかけを見つけサービスを提供する

ユビキタスの先端のソリューション例
VeriChip: Human Implanted RFID: FDA-Cleared Medical System
adax.com
小指の先ほどの長さ、太さが2ミリほど。中にRFID。人体に埋め込み可能
IDをもとに病歴のデータベースが見られる
セキュリティ、アクセスコントロールにも使える。ここの社員はみんな埋め込んでいる。
チップもリーダも見えないのに、システムが作動している。
疑問:どこからどこまでがわたしだろう
人とシステム/機械との境界線があいまいになってきている

船木氏のプレゼン
方法序説」情報倫理に書きたかったのではなく哲学について書きたかった
プラトン主義以来の西洋哲学の伝統である実在、それがあいまいになっている

自動車で後部の死角を映し出すディスプレイ、暗闇の人を見つけるセンサー
知覚の間にディスプレイが入り込んでいる
身体による知覚に、表象がすでに埋め込まれている。
携帯が管理する
知覚と行動がサイクルを形成している。

機械のコマンドによって人が動いている。
それがユビキタス社会ではないか。

デジタルハイビジョン、人間の目で見る以上のリアル

人間の主体がゆらいでいる
主体とは近代が作り出したもの

正しい解決を与えるよりも、概念をとりまとめるのが哲学の仕事。
機械対人間という対比が誤った概念からきているのではないか。

現代科学は「人間は機械である」と説明している
精神の働き、意識もまた脳の出力である。
人間は、私は機械なのか。

人間は機械である、という思考と、わたしは機械ではない、という思考を
同時に持っている。
そういう矛盾を持っている人は実践的な人だと思う。

「もはや私は"人間"ではない」
ヨーロッパ近代の人間:ルネサンスにできた言葉。ローマ帝国の時代がよかった。
その文芸復興運動の中。人間=ローマ時代の貴族のような人。
普遍人、万能人。
フーコー「もはや人間は死んだ」
普遍的な人間が近代に出現したわけではない。

経験はどこに帰属させればいいのか。
近代の人間の歴史ではなく、生物機械的な、種としての人類の歴史

その意味で歴史を捉えなおすと。
生物としての人間はみずからがつくってきた機械に適合してきた
機械とは何かというのを哲学が問題にしてきたことはこれまでない。
中世では、武器、農耕具の一部、楽器(organ)、そして奴隷(machine)のことを機械と呼んできた。
中世は、有機的な物質的なものも人、命に近いとしてorganと呼んだ
時計、定刻通りに祈りをささげる。精巧な時計は生物以上である。
「(人間を含む)宇宙は巨大な時計である」

時計自体には何の意味もない。
時計はすべての人が同じものとして認識を持っていたから意味があった。
それまで不定時だったのがヨーロッパの文明によって時計が生まれた
時間システムに人間が組み込まれた。時計はその一つの現れにすぎない。

モダンタイムス、ラッタイト運動
それまで奴隷だった機械が、システムを動かす主人になっている。。
それが人間vsロボットなど、人の主体をおびやかすようになっている。

しかし、人vs機械ではなく、人はそもそも生物を機械とし、機械を作り、それを環境として生活を構成してきた。
今のネットでは人間が機械を介して経験を環境に拡張している。メール、SNS
ベルクソン:ホモ・ファーベル

近代は、逸脱を動物・機械・病気として、(人間以外)捉えてきた。ネットやケータイのトラブルもまた。。。
新しい機械の概念を考えないといけないのではないか。

人間の本来性は普遍的なものは存在しない。それは時代、場所によって変わる。道徳性もそれと同じ。
現代では、人格というものをみなくなろうとしている。信用が重んじられなくなっている。その瞬間になにをしたか。
例:ハラスメント、パスワード、認証
背後の人間性が重要にされていない。

個人の情報をシステムが扱うようになっている。それはヒューマニズムとしての問題でなく、むしろ、それによって誰が儲けるかという制度の問題。
引用と複製の多さが尺度となっている。オリジナルであることよりも。

"人間"ということばで守ろうとしているものは何なのかをこそ問わないといけない。
真の対立は、サイボーグ(人間を含む機械、機械を含み機械とともに生きようとする人間)vs
ロボット(機械化された人間、システムによって自動的に動く人間、ファシズム、動物的な人?)

機械から引き離せば人間的になる、というのは真実ではない。

技術について
人が新しい技術を恐れるのは、これまでの道徳観が変化する可能性があるため。


人間は後退して、出てくるのは関係性ではないか。

斉藤
尺度としての人間の後退は、精神科の臨床でも"ある位相では"起こりつつある
それでもあえて「人間」に対して擁護してみる

統合失調症にしても欝にしても、軽症化している。個人の病理が浅くなってきてる。
その代わりあふれ出している、共有されている。
境界例はストーカーのように世俗化している。
境界性人格障害になるようなことを生活の中でしている人が出てきている。

個人病理を深からしめているものは個人の隔絶。
今ではネットワークによってそれが拡散している。
狂気が芽の段階で摘まれている。メディアによって共有されている。
いろんな人間関係の中で、病理が現れる。
ネットで粘着質だったり。

反メディア化が起こると?
メディア論自体が衰退してきた。メディア論は過渡期の現象?
デジタル化によって後退している。
キットラー
あらゆるメディアはパソコンができてしまう。
個別のメディアの特性を語る必要がなくなった。メディアの特異性が平板化した。
メディアが遍在化。

身体論も衰弱化
メディア論と平行して起こっていたから。
リアリティの位相が変わった。
すべての芸術が虚構であるという言い方が可能になってきた。
現実に近い体験が可能になってきた。日常の特権性もなくなってきた。
すべての虚構も現実になることができる。
脳科学的にみると、すべての知覚は脳の化学反応にすぎない。

ラカン:主体の死によって汎人間主義に至っている。

ジジェク
ブレードランナーレプリカント:過去をもって語れる。人間と違いがない。
ソフトウェアとしての人間が動けば、ハードは問題ではない。
ハリウッド映画的にはETは人間、日本人は人間ではない。

関係性の前景化
エリクソンの言うようなアイデンティティ、発達理論はない。

ユビキタス社会においては「成熟した人間」はモデルにならない
成熟した人間、教養を持つ人間はいらない。システムがそれを代わりにやってくれる。
成熟した関係のみが前景化する。
現在は過渡的状況。
関係性とコミュニケーションとを混在している。
それは違う。

ユビキタスは、無意識を二重化する
本来主体が行うべき判断を無意識が代わりに行っている
(無意識の)象徴界が判断を決定している、というのがラカン
ユビキタスはこの無意識を別のロジックによって実現している、外在化した主体によって。

関係性について記述するなら
記述可能な概念とは限らない。
社会的な役割論では関係性は自明に与えられる。
その先にあるものに注目している。
上司という部下という形の先にある、葛藤とかそういうもの。

やおい
やおい文化は関係性の操作によって成り立っている。
関係性の逆転、混乱に機微を感じて楽しんでいる。
関係性のなぞ、
関係性の構造に不可欠なのは、SとMのカップリング。
コミュニケーションに回収できない関係性がそこにある。
そういうカップリングが起こりにくい。あるいはフィクションという形で確保されるのがユビキアス社会

もうひとつあるのは、トラウマの必然性。
トラウマによって人間足りうるというのがラカニアンの立場。
エディアプスコンプレックス。
トラウマによって人は言葉を語る存在になる。また欲望が発生する。
象徴世界で他者を受け入れる

ユビキタスにおいて、欲望は?

AARON:ハロルドコーエンという人のプログラム
塗りむらをつけて、自動的に人の絵を描いてくれるプログラム。人が描いた絵と区別がつかない。たぶん。一つと同じ絵を描かない。
おそらくチューリングテストに合格したプログラムといえる。

関係性が固有性に依存する。
関係性と固有性のカップリングは強調しておきたい。
コミュニケーションは匿名性に依存する。

ダタリ(分裂分析地図作成法)
関係性は現実的超越論敵固有性に依存している:それを越えたところでおきる
コミュニケーションは可能的経験論的固有性に依存している:スペックが記述できる

ユビキタス社会で匿名でありたいという希望は
そのまま固有の存在でありたいとう欲望に一致する
記述の不可能性を求めるので。

声=文字を越えるメディアは今のところ存在しない
声の媒介性に回帰してくる。変われば変わるほど変わらない
メディアの介在によってより明らかになってくる

介在してくるによって作用するのは、
因果律の3つの分類;器質=現実世界、機械=想像世界、精神=象徴世界

器質的な因果律の特徴は、ほぼ同一的な反復性、階層性、学習可能、文脈の生成

一方機械の特徴は、完全に同一的な反復、学習の不可能性(フレーム問題)

また精神の因果律は、。。

主体には器質的主体(OS)と精神分析的主体(PS)がある。
旧来のメディア社会ではこの両面はしばしば混同されがちである、
メディアの創造的なロジックがこの二重構造を露呈させていく
機械論的=想像的主体の前面化において主体の二重性が分画される

統合失調症は機械論に親和性が高い
精神が機械に接近する? 過剰な正確がもたらすズレの生成

フレーム問題=過剰な正確性による到達不可能性
機械はパターン認識のみ

    • -

宮台
技術がもたらす「境界線の危機」−我々とはいったい誰のことか

人間的あることの困難:そこの境界線が
何が人間的がは難しい。何が人間かということは自明とされていた。
今、人間であることそのものも困難になってきた。

個性的であることはロボット的に還元できちゃう。
人間と人間でないことの境界のあやうさ
人間が義体化・電脳化、遺伝子操作、

クリフォード。。「都市」
人間的である遺伝子操作した犬が地球の主人になる
人間!=人間的


人間にとってよきことだと思って板のものがそういうふうに操作されていることに基づいている、という問題。

テクノロジーが介入しないことでかろうじて維持されているもの

人間的であることには作為が問題になっている
人間であることには不作為が問題になっている

Web2.0についての、クローズアップ現代の内容
人と人が重要、といっていた
そうではなくモノとモノとが交流していることが本質
Web2.0 : 情報素材が民主化、スマート化テクノロジ

情報素材の民主化の機能と帰結
GoogleEarth のビジネスモデル:情報を民主的に書き込み、欲望にあったソフト情報をおよす。
mixiのビジネスモデル:niftyのフォーラムと同じコミュニティベース、とくに携帯、女性が使っている
そこにあるもの。
既知性:自分の目と耳で新しいことに会うというチャンスが別のものに置き換えられる
主体性が損なわれていく。

スマート化テクノロジの機能と帰結
人が能動的に情報を手に入れようという機会(スイッチ)がなくなり、システムがインテリジェント化していく
シームレス化。
人間が選択する存在である、そこに主体性がある、というのが西洋近代。
スマート化によって、脱選択化。

既知性と脱選択化が人間性と抵触している。

脱主体化が政治的に指向されている
Good Feel States / ヒラリークリントン
快楽を与える国家を目指す。暴力は排除される
ブッシュ/ヒラリークリントン、どっちもネオコン
頭の悪いネオコンか頭のよいネオコンかの違い
どちらもデモクラシーを目標としない
合意形成の手順をスキップしようとする

ディスニーランド化
社会統制、社会科 パーソンズ
共同体化

日常社会ではすでに経験していること
地元商店的アメニティ、デニーズ的アメニティ
善意と自発的によって相互扶助、それに対し、役割とマニュアルによって
関係性からコニュニケーションに
入れ替え可能であり、人格よりもシステムを信頼し、流動性が高く、匿名的である。

これはウェーバーのいう近代化 生活世界がシステムに置き換わる

システム化により感情の社会的正当性が危機に
近代は、私で感情ゲームが、公では契約ゲーム
より大きな感情ゲームを持ち出す。日本ではそれが天皇制的統治

感情を制圧できなくなっている。
不安のポピュリズムによる感情ゲームの肥大
西洋では、感情の社会的正当性が先鋭化している
これがマトモだと考えられる感情ができている。生活世界を重要するヨーロッパと宗教的良心(結社)を信頼するアメリカ
日本ではそれがない。
感情の社会的相対化と人格障害

計算機科学やバイオ技術による人間観念がアモルフ化
擬体化した人間。。。

スマート化により、管理化を巡る権益争奪
入管法問題改正問題、共謀罪問題、そこに技術の押し込み
スマート化の便益を利用した普及:例, ETC -> ドライブの履歴がすべて管理
誤用、濫用可能性とチェック可能性、チェックが見えないし動機もない
官僚行政国家と全体性(マンハイム
人の自律からシステムの自律へ

米国は積極的に推進している
米国の文化は、そういう建築家的権力を受け入れてきた
格差社会
不完全な民主制を保管する事実性の違い
感情の社会的正当性
共同体(非流動性の伝統、結社の伝統
生活世界保全での対処、システム社会拡充での対処

処方箋は? 再帰性の徹底へ
処方するべき?何を回避しあにといけない?
そこに合意できない。
再帰性:選択の前提も選択されたものという性質
モダン的再帰性保全)、ポストモダン再帰性(建築)
最先端的実験社会としての日本
よい・わるいGoodFeelingがあるのみ
真理の言葉、機能の言葉
デモクラシーの危機、人は知りたがらない(動物化
エリーティズムの必要性:そのQualifyは?
それを執行するのは「新しい知識人」:そういう人は日本から退場しているように見える
船木
エリーティズム。。。そこでも近代的な考えを引きずっているように思う。

成熟した人間は規範にならない。
その人間を信用することより、トラブル・リスクもある。

分散的に解決する手段もあるのではないか
近代が理想とした社会はそこでは無理だろうけど、解決される手段が提供されていれば、いいのではないか。

総体的な幸福そのものが近代が生み出したものだろう。

今問題になっているのは、それが本当に必要なのか、ということ。

宮台
全体性はそもそも行政をチェックするために持ち出したもの
問題はレッシグがいうように
アーキテクチャの設計を目指す意図の察知にある
実際、企業、政府は、いろいろやっている。
二項図式ではなくて、階層化したアーキテクチャの中で
意図しないところで誘導しているところが問題。

そういうことに気づかなくてもいいのかどうか。

専門性とは違った次元の、自分たちがもともと生きるということに
どういうイメージを持っているかというライフポリティクスの問題
それがどういうふうに生まれ何によって維持されているかが問題。
自分を疑う、ということが必要。

斉藤
意図の察知と、無意識の分裂について。

幻想をみんなで共有しているというのはあると思う
情報化=データベース化
対抗するとするとラカン的な倫理を使えるのではないか。
自らの欲望に関して譲歩することが罪
あっさり欲望が満たされたと思って満足してるんじゃないよ。
ある程度の快適さで維持されている。満足させられている。
平均化された快楽、快適さの中で欲望の特異性が問われる。
幻想にだまされて欲望が満たされたと勘違いしてはいけない。
快感、つまり緊張の解放まではシステムはあたえらえる。その先の享楽は与えられない。

(欲望というのはシステムに組み込まれるのか?)
代替されているところがずいぶんある。最大公約数的な。

宮台:
技術でだって解決しうる。ニューロコンピュータの進化によって
逆説的だったり不快にするようなリコメンデーション
共通の前提があるという前提そのものが崩れている。パラダイムそのものが違う

議論

鈴木弘輝:
和田伸一郎:
萱野稔人
堀内進之介:

和田:
モバイル社会の速度的次元

前の話
主体があいまい
関係性が前景化
アーキテクチャ

ケータイの電源をきることは可能か?
街の中で、さまざまな場所(自宅、仕事場、、)から「引っ張られて」いる

倒れている人も助けずに目的地に行くし、自分のしていることを中断してまでも電話に出てしまう。

電源を切るかという主体的な選択以前に、その社会に帰属するかそこから降りるかという存在論的選択に関わっている。
近代的主体というより、社会のシステムの中で行動が規定している。

要素として、速度に注目したい
倫理的なものよりも、速度(社会の中での行動)を優先する。
道徳、倫理の低下よりも、速度社会の中で、急ぐ人間にならざるを得なかった。

不法注射は交通違反、道をうろつつ人は不審者:道路の流れを止めることがシステム的にあやしいとみなされる。

脱政治化
政治的活動として、民衆が連帯する、結集することだとすると、それを妨害していることを問題としている。

国家はみんしゅうの政治的活動の阻止、のために街路を通りすぎるだけの場所にしておかなければならない(ランシエール
街路を制圧することが革命を起こす群衆にとっていかに重要であったか(ヴィリリオ
国家権力とは、治安警察のことであり、それは交通規制である。

結集の阻止に加えて、さらに互いに隔離し、分割させておくことが、国家への反発の芽を摘み取ることができkる。
この分割に貢献したのがメディアではないか。同じテレビを見ながら分割されている家庭。
分割は、個人の政治参画を不能にする。

家族でお茶の間で見られていたテレビからケータイによって個人に分割される。
秋葉原の公共広場に集まることを禁止する看板が立てられた。

市民にとって深刻なのは、社会学的な人間関係の弱体化よりも、そのさらに深層にある政治的主体化の弱体化ではないか。
(デモなど)政治的活動への契機を分割により奪われている。

コミュニケーションは、根本的な分割の後に要請された代替物でしかないのでは。
分割を完全に再結合することはできない。
例:ネット上のバッシング:根本的な分割(敵対、誇示)に基づくコミュニケーションでは?
メディア技術のポテンシャルって、コミュニケーションの領域にあるのか。
検索にあるかも疑問。

分割に対して、主体がもつ、システムが回避する、必要があるのでは。
分割の選択余地を与える環境が必要では。

堀内
一方で、9.11は革命が空間を必要にしないことをあきらかにした。
ネットはあらたなつながりもつくっている

「べき」の主体が、われわれか、わたしか、で根本的意味が異なる。
理念として、わたしがこうあるべきだと思うのが制限なしにできることが
公共性の議論の根本。

鈴木
子供にケータイを持たせるか、という問題
子供のプレゼンスを保証するためにみんなケータイを持っている
科学技術を用いることが家族の交流を作っている一例
分割以外の例もあると思う

萱野
テクノロジといいわるいは違う
どのように社会が形成されてるかちゃんと見ないと、倫理などの議論はできない

入管法の改正
企業、政治家などの利権
管理だけではない動きがある。
その上で権力の形などがどう変わるかを考えないといけない。

堀内
テクノロジが普及するとなしにはできない
ケータイの弊害が指摘されてもケータイを放棄できない
予防的な評価が必要となる
社会的な変成全体を見ていては間に合わない。

萱野
アクセンチュア
テクノロジをそれ自体として道徳的に評価できない

萩原(司会者)
たとえばケータイのカメラ
開発の時点で想像しきれない。ユーザは想像を超えている。

鈴木
私立の高校で講師をしていたとき
数学の教科書をすべてケータイのカメラにとっていた。
テクノロジーの問題はやはり社会・コミュニケーションの問題

和田
倫理で解決できない。
関係性も保証できない。
システム、アーキテクチャで結局管理するしかない
循環している。
ある種の人は壁を破壊していっている。
テクノロジのポテンシャルは多様化していく。

堀内
変成を予測はするはずで、その上でテクノロジーが作られる
テクノロジがもたらすだろうシステム変成をどう考えるか。
考えているのと全く逆の帰結をどう扱うかを考えたい

和田
新たな変成を考えるにも根拠があるはず

堀内
普通根拠というとき考えるのは正当性
その根拠が万人に受け入れ可能かが問題
根拠の本質自体は問題ないと思う

鈴木
普遍的な根拠を支えるルールがない点で4人は一致している
現行の社会にどのようなルールがあってそのうち何がどう変わっているか。
和田氏の、テクノロジーの進化が避けられないという点、壁が破壊されることはよいことだというところで、個人の価値判断が入っている。
そこで進むか守るか。

和田
根拠と言う言葉に代わって言った方がいい?
「象徴的虚構」
ケータイはこう使うみたいな、ユースケース、物語。
虚構がどんどんうそ臭くなってきて、家族やらに。
現実世界がはりだしてきている。
いかなる物語もうそくさい、という中で、根拠を物語、虚構とつなべられないか。
映画「息子のまなざし」。
自分の息子を殺された夫婦のところに、息子を殺した男が働きにくる。
虚構的な話で説得性を持つよりも、リアルに

斉藤
現実会がはりだす、というのもある
メディアの意味として、情報化技術は協力
ひとつのありかた、メディアの一つの進化を徹底化する。
人は、メディアは完璧に動作すると思いがち
メディア幻想、情報化幻想がある。
簡単に現実世界が突出する、というのはないんじゃないかなと楽観視している。

新たな自明性があるのでは。
YouTube。おもしろい倫理観がある。
著作権治外法権。一方でエロは置かない。何か合意が形成されている。
メディアの媒介による新たな自明の前提ってあるのでは。

堀内
ケータイの接続強制も悲観的に語っているのではない
ケータイで電話にでることが倫理になっている人がいる

和田
むしろつながらないところをふやせ。
常につながるよりも、つながらない空間を確保する、というのもあるのではないか

堀内
交通規制も、公共場所を作れば解決ということになる

萱野
テクノロジーはニーズを元に出てきている。時計も。

堀内
生命倫理:技術に対しておそれを持って考えないといけない
社会的な、経験的な地平にとどまって根拠を考えるべきでもある。
ただし、それを恒常的に維持するべきではないと考える。
社会の同意があれば、根拠を変えてもいい。

鈴木
新しい自明性の構築にも、明暗があると思う
YouTubeでも熱狂する人とわからない人がいる
島宇宙を目にすることになる。
怒ったりあきらめたり。
あきらめのモードが社会そのものを掘り崩すものになる

成熟することをあきらめる、というのがある。

萱野
価値判断に2つの次元
・テクノロジは行為の可能性を拓く。そこで行為に関わる道徳・規範と抵触する
ヴィヴィリオ:テクノロジを発明することは同時にアクシデントを発明することである
・テクノロジは、資本蓄積の契機を与える。既存の資本が価値低下する。サイクルが生まれる。新しい産業に人を向かわせないといけない。規制緩和なんかもそう。
労働力を流動化する。新しいテクノロジは流動性を高める。そこで不安のポピュリズムが起こる。
資本がシステムに組み込まれたとき生まれる不安をどうコントロールするのか。

堀内
全体性をだれがどのように観察し評価するかが最終的に問われる。
結局それを放棄できない。

萱野
テクノロジの発達、銃器が大量に戦場に投入される、という形の結果
社会関係が変成する。その結果、近代において、公私が分かれた。
テクノロジによって暴力が集中→合法的な暴力だけが独占する
中世は違う。ペーレ。

入管法
アクセンチュアはアメリカの入管システムも請け負っている
主権が崩れている、政治的な単位が変わってきている。
暴力の管理が国家でありシステムである。スポノザ。

数が今までよりも強くなっている。制度もそれに引っ張られている。
Google

制度を作ったり、根拠を作るものとして、技術を作るというのはありうるのか。

鈴木
日本の場合だと、ネットでの評判が実社会での評価に直接関わらないように思う。
ネットで内部の人同士で情報は伝わる。しかし外側に評価が伝わらない

出版社など今のメディアが以前として強い。本に載ってなんぼ。

和田
閉じているという点では賛成
Googleで資料をさがすが、求めているような資料はまず見つからない。図書館などの方が見つかる
どうやって探すかを個人で考えればいいのではないか

Googleで探すよりも、わざわざ本を探しにいくことの価値って何だろう。

堀内
20000とかヒットするとそれで十分なんではないかと思ってしまう。

和田
結局主観的なものがある。
ネットでは情報のコンテクストを探そうとすることが少ない

堀内
古典的な自由の問題では。与えられた選択肢では自由を考えるので限界がある。。

宮台
新しいプラトン主義、反プラント主義。文字が急速に普及した
記憶の外部化で、韻律、歌、踊りがなくなる。ミメシス(模倣的感染)
ギリシャ人が名誉だと思っていたものがキャンセルされた。

感情もキャンセルされる。
感情もまともである必要がない。
快不快によって自在にコントロール。

人間的だと考えられるありかたからずれている。これをどう評価するかは難しい。
ローズ以降のリアリズムは断念した。合意はできない。
そういう人間らが共生可能な世界を作る
なにがjusticeか。

これもある前提がある。人々が違った価値観を持っていても同じ枠組み=同意が必要。
ある人間性の観念を排除しないとシステムがなりたたない。

生命倫理の問題。
子供に何を与えるか、どういうコミュニケーションをするか、を考えることで
自分が何を受け入れられるか学習した。
大画面の上に置いたら、すごく興味深い顔をしたので、すぐに消した。
積み木で遊ぶとか人形であそぶ、は何を受け取っているか推定はできる。
大画面でバラエティを見ている子供が何を受け取っているかわからなくて、いいようもない不安にかられた。
文科系の人間にしゃべっても同じ。みんな保守主義だから。
理科系の人間にそれをしゃべると、そういう立場は未来を閉ざすと反応する。
いいこともおきるかもしれない。悪いことがおこったとkに対処すればいい。。と。
経験値が詰まれていれば対処できる。
速度の速い遅いのよって対応もできる
何が人間かというものについて共通了解があるはずだ。ハーバマス。
これを壊してしまうと、ゲームの前提が壊れることになる。
これは、フレーム問題そのもの。何を考えなくていいのか、事前に数え上げることはできない。人間は経験的に許容していく。
何かが起こると考えなきゃ、と考えるようになる。

何を考えなくていいのか、というのは人によって違う。
それもじつは速度の問題。時間がかかれば学習する。

学習速度、個人と社会、からみて合意的な範囲にとどめる
技術と社会のインターフェースにおいては重要な問題だと思う。
それは技術のよしあしと関わらず、
速度をコントロールするのは重要な問題。
ゆっくりすると先行者は死んでしまうしね。

佐藤
教育、
対面で向き合っている。対面的なコミュニケーションに偏る。
メディアに対して懐疑的ではある
日本の社会は、YouTUbet系な重要、それに対する諦観
教育では勝ち組負け組、で受験をあおっている
そういうのが同化している。アンマッチを生む。

和田
技術のポテンシャルそれが限定されたところで社会化されているにすぎない
そこで問題が起きているにすぎない。
肯定的に考えている

萱野

堀内
今生きているから、自然淘汰されるまで待っていられないのも。
知ろうとする意欲を放棄してはいけない。
その動機付けは? 教育のシステム?
欲望を欲望するような人間をどう生み出すか。