スパイダーマン3

グダグダでした。ネタバレ防止フィールド展開。




この映画で印象に残ったのは2つ。一つは、敵との決戦にやってきたスパイダーマン星条旗をバックに大きくフレームインするカット。「スパイダーマン」が啓発する対象は、「nerd」であり、自信を失ったアメリカである、というのは2でもあった構図だけど、それを露骨に絵として見せていた。

もう一つは、敵あるいは味方の死に方。子供も見る映画だから残酷なシーンは映せないんですよね。ヒーローは敵を殺しちゃいけない。ヒーローは余りに正しいので、敵が自ら破滅しないと話が終わらない。この作品に限ったことじゃなくてハリウッドの倫理なんだろう。んで、そのハリウッドの倫理は、「強いアメリカ」の倫理と共鳴している。

スパイダーマン3のダメなのは、物語が歪になっているところ。敵は死ぬべきときに死なず、味方は死ななくていいときに死んでしまう。唐突に執事が真実を話し始める。
そしてそのグダグダっぷりは、アメリカと重なって見える。対イラク外交がグダグダに終わったのは、アメリカが自らに課した正義のためで、その回り道っぷりが丁度スパイダーマン3のダメっぷりと重なるように感じる。

ラストでは、ピーター・パーカーとMJとの互いの絆の確認が抑えたトーンで描かれる。というか、これで終わりなの? と笑ってしまいそうになるぐらいひどいものだった。それはバラバラになった正義と無理やり仕立て上げた殉教の反動なのだろう。最も身近な人の絆を消極的にしか肯定できないまま物語を終わらなければならなかったスパイダーマン3は哀れな映画だと思う。ただし、そんな歪な物語を選択したのはアメリカ自身だから仕方がない。

午後の国の小説

ブラッドベリの「死ぬときは一人ぼっち」に、小説を書き続ける作業について、朝にゲロを撒き散らし夜にそれを回収するようなものだ、てなことを書いている。確かに多くの小説家のアドバイスに、朝に書けというのがある。あるいはスティーブン・キングは、小説を書くときは部屋の扉を閉め切って一人きりになれ、てなことを「小説指南」で言っている。
眠りの中で経験が統合され無意識が夢となって具体化する。残滓は朝起きた後の頭に残っている。そのエコーにゆだねることは、世界を物語的に記述するのに適しているように思う。
しかし、物語よりもデータベースが優先される今、ゲロのような情報が撒き散らされているネットに常に曝されている今、一つの世界を一方的に提示する物語的な小説はかつての力を失っている。撒き散らされたゲロを片付けながら語り続ける小説、日の下のことを語りながら夜を潜り抜ける小説が一つのalternativeとして存在しうるのではないか。
今書かれるべき文体を考えててそんなことが頭を巡ったのでした。