#23「境界面上のシュタインズゲート」

先々週くらいにふと録り貯めしていたシュタゲを見始め、あまりの面白さにiPhobe版を買って全クリしドラマCDαを聴いたのが先週のこと。しかしTrueエンド前の23話は正直あまり期待していなかったのでした。しかしそんな諦めも吹き飛ばす神展開。何回見返したことか。

23話のカタルシスは、自分自身からオペレーションの指令を受ける、という点につきます。「鳳凰院凶真」が「機関」に抵抗する同志と電話で連絡をとるという「設定」が真実になっている。SERNの襲撃を受けて以降、岡部は紅莉栖や鈴羽の協力を得ながらβ世界線に戻るというミッションを遂行していった。しかし、物語の最後、困難に挑む同志は自分自身のみ、という展開。アニメ版は、限られた尺で、それを十二分に描きつくしたと思います。C204の語源、「シュタインズゲート」の意味をオペレーション説明の直前に持ってきたのはそのため。「シュタインズゲート」という言葉は「特に意味はない」けど、岡部には大きな意味がある。そして最後の「エル・プサイ・コングルゥ」も大きな意味があることを、映像と音声で裏づけしている。オペレーション自身も同様の意味を持つ。オペレーション説明時と凶真復活時に「スカイクラッドの観測者」がかかるのも補強してますね(原作では1回目のタイムトラベルのときにかかるけど、アニメの方がタイミングとしてはふさわしいと思います)。もはや他人に意味を求める必要はない。己一人で遂行しなければならない孤独な戦い。なんともリア充万歳、仲間万歳な今の風潮に逆行した展開。未来の岡部は「鳳凰院凶真」という共通言語でもって過去の岡部に力を与えようとしている。それは世界に対抗するための戦い方のひとつなのでしょう。

「まどか」もそうだけど、リア充万歳、仲間万歳なコンテンツばかりだった時期に比べ、ゆり戻しとなる物語が出てきている。それらは、手垢のついたアーキタイプ(神話)を縦糸に、現在の空疎な自己や人間関係を横糸にして物語をつむぎ、広い世代に受け入れられている。商業創作の最前線にいる人たちの同世代だからか、これでいいんだというある種のカタルシスと、この流れもそんなに長く続かないのではないかという諦めと、今更こんな物語でいいのかという苛立ちとがない交ぜになった複雑な感情を持っていたりする。
で言えば、ラストの鳳凰院凶真は頼もしくもありながら、彼がどれだけ自らを恃みとして戦い抜かなければならなかったかに思いを馳せてしまいます。そして、こういった自らを捧げ世界に味方する英雄はあとどれだけ物語の中で有効なのだろうかという諦観を感じてしまうのです。

新幹線でゲリラ

名古屋からの出張帰りだが、新富士でゲリラ降雨のため、運転見合わせとか。エヴァに間に合わんがな、、、
現在8:36、雨は激しく降り続けており、静岡でも雨が激しくなってきたとのこと。予報では30分あとには収まりそうなのだが。お腹すいた。しかし長いな。新富士は大丈夫なんだろうか。
8:53、今も現地は激しい雨が続いているとのこと。車内販売に人が群がり始めた。エヴァのエア実況でもするか。
9:14、新富士ー三島の雨は収まってきたと。しかし静岡ー新富士は激しい雨が続いてると、、なんやねん。エヴァ、順調に進んでるな。2回映画館に行ったこととか、ユイの墓標をネットで情報共有してたのを思い出した。しかし序盤からカットか。スレ乱立してんな。月キターとか何処のシーンかと。ん?地震も来てたのか?どんだけ天狗の祟りなんだ、、お、落下使徒か。虹色の警戒色とヒレが展開するギミックはシビれたなあ。
9:36、運転再開のお知らせのテロが来た。順次列車は動き出すとのこと。放送はないので、実際に走り出すにはもう少し時間がかかるか。お、放送きた。静岡から浜松の間に沢山の電車が止まってますと。見てみてぇ。おー、動き出した。小一時間止まってたのかな。あとはこのまま無事に着けることを願って。オーヴァー。

金沢散策

Uターンの旅の目的は、金沢と立山黒部アルペンルートサンダーバードで金沢に入り、まずはベタに兼六園に。
2ちゃんねるのスレでは残念な場所という感想が多かったので余り期待してなかったのだけど、いやいやどうして技巧の極みじゃないですか。桜の枝の広がりは他の木を邪魔することなく柔らかく張り伸ばされている。松の枝振りの大胆さが浮かないよう灯籠も流水も石も配置されている。1つの木の枝振りが面白いとか岩を何かになぞらえているというような局所的な意匠はどんな庭でも見られるのだけど、兼六園では近景から遠景まで通して美しい。どこを見ても絵になるだけでなく、歩くごとにころころを表情を変える。パタンランゲージの集成なんだろう。日本三名庭を冠するだけはある。園内にある成巽閣も素敵。
金沢城は多く改修中であり建築物に見るものはそれほどない。石垣の石がもはや緩んでいて反り返りの曲線もがたがたになっていて、かつて威容の名残に風情を感じる。
あと、印象深かったのは足軽資料館と尾山神社の間にあった「オヨヨ書林」という古本屋。白塗りの古びた木造の長屋で、明るい土間には絵本が、中には壁に据え付けの本棚いっぱいにアレゲな本が奇麗に並んでいる。スペースをゆったりと使っていて、窓からの採光と天井の電球とで、古本屋にありがちな辛気くささがない。商店街の紹介ページに写真があった。時間が止まっているのではなく緩やかに流れている。新宿のブルックリン・パーラーのもっと純度をあげたような感じ。本も精選されているのがよくわかる。ただ同じ本屋が東京にあってもここまで印象を強く持たなかったかもしれない。オヨヨさんは青山から金沢に引っ越したらしいけど。香林坊のおしゃれな街並、風情のある長町武家屋敷跡を通って、ハイカラな尾山神社への道すがら見つけたからなのかもしれない。町歩きが場所と場所をつなぎコンテクストあるいは地図を作る行為だとすると、金沢は素敵な町歩きができる街といっていいと思う。

有名なお寿司屋さんはさすがに予約一杯なので、いっちょネタにと「ひよこ」というビースフテーキ屋に行ってみる。駅近くから18番東部車庫行きで猿丸神社前で下車。食べログのレビューから想像した以上の店構えです。これはないわ。

レビューにもある通り、メニューはヒレステーキのみ。入店してカウンターに座ると、お冷やを出すやそれでは焼いていきますからね、となんとも見敵必殺な接客である。なすにタマネギにジャガイモにしいたけを鉄板焼きさながらに炙りつつ厚さ3センチはあるヒレ肉をごろごろと取り出す。これはステーキなのか? とスナックのような丸椅子に座りながら呆然とする。

しかし肉はうまい。なんでこんなに柔らかいのかと。レビューではオイルに浸けているとか書いていたっけ。といってシチューにようにほぐれるのでもなく。ご飯もパンも付いてないのだけど、これは構わないわ。

箸を数切れつけたところで、7人ほどの親子三代の家族連れが来店。40年ほど店通いをしてる近所の人らしい。店ができたのは47年前だとか。なんでも北海道旅行から帰ってきてこの味が忘れられなくて来たらしい。お店もっと大きくしなよというそのお客の声に、手伝いをしているおばちゃんが肉が入らなくてね、との返事。確かにこの料理でこの質を保つには客は数人しかさばけないか。
ところで、出身が明石で、という話をすると、店主が裏にある猿丸神社は明石にあるタルマル神社というのと関係があってね、という返答をしてくれた。タルマル神社というのは知らないけど、人丸神社というのが家の近所にある。猿丸神社は京都にもあって猿丸大夫を祀っている。人丸神社は柿本人麻呂を祀っている。柿本人麻呂猿丸大夫が同一人物という説があったなぁ。梅原猛か。

京都といえば天下一品総本店

帰省途中に京都に寄ったはいいが、特に行くあてもない。一乗寺のラーメン激戦区でラーメン食べたいなぁと思ったとたん、天一総本店に行かな!とインセプションされてしまいふらふらと市バス5系統岩倉操車場行きへ。
5系統は、烏丸から四条通りを経て河原町を上り御池通りから鴨川を渡り三条通りに戻って東大路を上がるという素敵仕様。四条通りの市バスとタクシーの乱戦っぷり、河原町の乱立するパチ屋の隙間に甘味処があるアナーキーさは相変わらずでした。高山彦九郎先生の土下座はこっち向きだっけと思うが御所だからこれでいいのかなどと記憶の欠片を結びつけ、三条通りもこざっぱりとなったなぁと感慨を持ちつつ、バスは岡崎通りから平安神宮、動物園前、南禅寺を巡っていく。家族連れが入れ替わり乗り込みまた降りていく。観光客の慌ただしさ、暑苦しい夏空、品のいい街並、どれも京都らしいなあなどと感傷に浸る。表情を少しずつ変える通りの眺めを楽しむのも、京都の楽しみの一つ。実際、街並を眺めていて飽きることがない。ハイソなパン屋とかガラクタ同然の品揃えの画材屋とかブーム便乗のつけ麺屋とか高級割烹とか敷地内に森があるような大邸宅とかす涼やかな疎水とか。バスは銀閣寺前から白川通りを上り一乗寺へ。
天一総本店の最寄りのバス停は一乗寺木之本町とあったけど、一つ前の方がいいなぁ。数分歩くと赤い看板と待ち行列が見えてきた。天一ジャンキーどもめ♪ いや自分もそうなのだが。店は少し奇麗になり、そして確かにベッキーすぎる。センスがダメな意味で香港風なポスターを、色んなバリエーションで作っていて、店の外から中から貼り倒していた。
そろそろ味のことを書こうか。食べログのレビューでは、本店は味が違うという声と味の違いはないという声が7:3の割合といったところ。自分としては、よーわからんw 味の基本は本店も東京の店も変わらない。本店と比べると、東京の店のは立体感がないというか全体にぼんやりしているというか。信者補正のプラシーボではないと思うんだけど、東京で食べ直すと違いをはっきりと指摘できるかも。とりあえずスープがちゃんと熱いのは確か。東京のは熱くはないんですよね。
食後は詩仙堂に向かう。東山の麓はなんか好きなんですよね。品のいい邸宅と田畑が陣取り合戦をしている狭間をすり抜けていく。銀閣寺から下る哲学の道は学生時代によく散策したものです。宮本武蔵が吉岡一門と戦った一乗寺下り松から坂を登り品のいい門をくぐる。詩仙堂の庭はもっとかしこまった庭なのかと思っていた。結構ゆったりしていると感じたのは、真夏だからなのかもしれない。秋には紅葉ですごいだろうなと思わせるつつじたちや如何にもな植え込みとは対照的に、段差の下へ降りていくと少し開けていて池と植え込みの対比で見せる感じに。いや何も知らんけど。
夕方に実家に着かないといけないので早々に京都を離脱。今度は修学院離宮に行きたいなぁ。

実家では一日、犬と息子夫婦と興じる。末弟が買ってきた焼酎の魔王が異常に美味しかったことと、関西にはソースの種類が多いことを備忘的に書き留めておく。実家からオリバーのお好み焼きソースを強奪してきました。このままUターンの旅を始めることになるのか。

戦場の畸形化

主義主張が違うと戦闘が起きるのだけど、なんだか最近どんどんその戦闘がしょーもないことで多発するようになっているように感じる。使えるコンテンツが限られているため、小さなギャップに戦力が集中し、歪みが発生しているみたい。

行き過ぎたマニエリズムというか、ガラパゴスというか、メディアでは最初はバランスのとれたコンテンツが徐々に畸形化していくという習性がある。たとえば、2ちゃんねるのコンテンツ関連のスレ(たとえば特定のアニメ番組)のAAは、最初は映像の模写だけどどんどん畸形化していくんだよな。そういったネタの畸形化が敷居の高さになって新参者を排除することになりやがて衰退していく。進化の袋小路というやつだ。

で、コンテンツならばまだ微笑ましいのだけど、経済活動や人のアクティビティまで畸形化していっているのか、とやらおんの2つの記事を見てなんとなく思ったのでした。
ソーシャルな経済活動に偏重するなかで、人間はどんどんコンテンツ化しているなぁ、というのは以前から感じているのだけど、そのことと人の行動の畸形化には関連はあるのかも。ないのかも。

「リトル・ピープルの時代」

村上春樹評論までのメモ。
「現代において私たちは誰もが不可避に小さな「父」として機能してしまう」というのが釈然としない。ソーシャルな互酬系に依存していたらそうかもしれんが、拒絶できるものだろうよ。とりあえずtwitterをやめればいいような。ソーシャルネットワークは、今や宇野さんのいう「リトル・ピープル」を増殖させる機構にしかなっていない。

とはいえ、「問題はすでに、いかにして父になるか/ならないかには存在しない。自動的に発生する(小さな)「父」たち(リトル・ピープルたち)の相互関係にこそ、今、文学が立ち向かうべき問題は存在するのではなかろうか」という提言については、「父」という言葉を除けば賛同できる。

新自由主義の圧力はわかるし、小さな「父」が溢れかえっているというのもわかる。ただ、その父に、リトル・ピープルがとりついて別の醜悪な何かに変質しているように見える。


1Q84」についてはBOOK4以降が出ないことには後だしじゃんけんにしか見えないな。