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よつばとARとアフォーダンス

8巻ですが、しまうー目当てで買ったんだけど思った以上に楽しめました。「文化祭」「たいふう」「おまつり」のイベントもの3本の積み重ねで、単なるエコじゃないんだとちょっと分かった。
中でも「おまつり」でのみうらのシーンで、頭を殴られたような衝撃を受けたのでした。大きな山車とそれに向かうみうらの凛とした表情と演舞の静謐さ。本当にすごい。
このシーンを読んで感じたことが2つある。
一つは、日常のよつばの行為はここにつながっているのだという点。「よつばと!」では、よつば(や他の登場人物)が外界に干渉するさまを楽しく見せている。でも、それはよつばの特権ではないんですよね。お祭りのハレの場では、誰もが文化的装置の中で世界に干渉する役目を負う。「たいふう」でのとーちゃんのシーンもすごい好きだったりする。ネタとしてはまあありがちだけど、構図と間であれが小さな祝祭であることを読み手が共有することができる。共通意識のレベルによって、さまざまなレベルの世界への干渉があるんですよね。それが深いレベルでつながっている。「よつばと!」ではリアルな背景が繰り返し描かれるのだけど、中でも世界のスケールの大きさを表す素材が好んで描かれているように思う。「文化祭」での階段のカットやちらしのカット、「たいふう」の雨のシーン、「おまつり」での山車のカットなど。大きな世界への働きかけ、としてよつばの日常とみうらの演舞が地続きであることが以前より理解できた。
もう一つは、「干渉」には相応の「装置」が必要であるという点。みうらはお祭りで演舞をする役でいたからあのように世界に干渉できた。言い換えると、お祭りがみうらに世界に干渉させるよう仕向けたとも言える。よつばの行動は、日常のちょっとした引っ掛かりをネタにしている。アフォーダンス風に言えば、ギミックがよつばを行動させているとも言える。あるいは、ギミックと干渉はカップリングされている。
AR、あるいはユビキタス・コンピューティングは、如何に情報を環境に侵襲させるか、如何に環境をhackするか、という西洋的な自然観で動いているように見える。一方日本では、(今は亡き)「やおよろずプロジェクト」という名前の通り、如何に環境に己のintentionを溶け込ませるかというアプローチがとられているように見える。
よつばと!8巻を読んで感じたのは、ギミックと干渉はカップリングされているものであり、文化的共有意識のレベルで複層化して存在している、ということでした。現実感の拡張とアフォーダンス双対性の関係にある。我々が環境に侵襲しているとき、環境も我々に侵襲している。その"交換"のバリエーションの広さが"世界"を形作るのに必要なのかも、とか思ったのでした。