磯監督の描くものと「オタク イズ デッド」

丁度酔狂さんからフル3コマの話を紹介していただいたので。

磯監督の描こうとしているものは、はっきりとした形のないもの、あいまいなものなのでしょう。それは、ロマンアルバム電脳コイル」にある数々の記述からもわかる。

斉藤 いただいた曲のメニューの横に書かれた磯さんのイメージがすごく抽象的で――明るい曲には「明るすぎない」、悲しい曲には「悲しくなりすぎない」とわざわざ書かれているんですよね。
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池田 OPテーマのキーワードは「朝陽」だったので、私はアニメらしく明るい爽快感のある曲がいいのかなと思っていたのですが、監督にとっての朝は、夜を越えてまた明日がくるという不安やあせりの中にある真っ白にある時間だったんです。監督は全編を通じて、内からじわっとあふれてくる感情を表現したかったようですね。
/ ロマンアルバム電脳コイル」, pp.129

また、色彩設計の中内さん、美術監督の合六さんのインタビューからも、「電脳コイル」が描こうとした世界が、夜でも朝でもない時間、こちらの世界でも電脳世界でもない空間なのがわかる。それは動きの入りと出を設定せず、動きの過程を描く、フル3コマの技法と共鳴している。
磯監督自身のインタビューを読むと、「世界の多義性」が作品のテーマそのものに関わることがわかる。

子供の頃見ていた暗闇を今も抱えている人には、企画書に描きこまれているものの意味がすぐに伝わって、面白がってもらえたと思います。

一見矛盾するものが同じ意味を持つ瞬間ってあると思うんですよ。

自分の中では、そういう「境界線上」というのが重要なものなんです。
/ ロマンアルバム電脳コイル」, pp.90-92

この他にも、迷い道の話、コイルの意味、オカルトの話など、磯監督の姿勢は一貫している。「境界線上にいる」子供の話は、ラーゼフォンで磯監督が担当した「子供たちの夜」に通じている。

ところで、フル3コマについて考えるたび、岡田斗司夫の「オタク学入門」を思い出す。
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アニメの作画について語るとき、いつもパースとレイアウトが取り上げられていた。それらの中にあるデフォルメはやはり、岡田斗司夫が言うように歌舞伎などの不均衡の美と通じている。
しかし、止めのポーズを決めないフル3コマは、このような定型的なアニメの文法から一歩踏み出している。あるいは、京アニのディテールは、リミテッドアニメの制約がもたらす美とはやはり一線を画している。時かけも、エウレカも、グレンも、そして勿論電脳コイルも、如何に「見立て(=語り方の定型)」から外に踏み外すかに力を注いでいる。

もちろん今までのアニメが築き上げた文法や技法が無効になったと言う積もりはない。つーか別にアニメに詳しいわけでもないので、結論めいたことを言う資格もない。でも、岡田斗司夫の「オタク イズ デッド」という言葉とは確かにシンクロしているのではないか、と思う。あの言葉自体はどうでもいいのだがw ただ、現在の(アニメを含む)表現の最先端は、第1オタク世代の作り出した表現の枠を確かに越えている、と言っていいんじゃないかと思う。「オタク イズ デッド」は、新しいオタク学が必要であることを逆説的に主張している。