物語と情報処理の交叉点

ポストモダンの物語は、ブレイクダウン(理解の齟齬)が汎化される過程を記す。ミニマリズムやら家族やら思い出といったモチーフ、あるいはエピファニー間テクスト性といったツール、どれもブレイクダウンを抽象化したり中心化したり原因に帰着させることを目的にしている。
今では、物語性をキャラクタの性格やトラウマに帰結させることが多い。セカイ系に属する物語は、欲望を充足させるために存在しているのではない。そこでは他者との関係性によって生じるブレイクダウンがより純粋な形で(異化されて)描かれる。その点において、ラノベも今の純文学も何ら変わらない。
社会の中で対話という行為は、快楽の伝播よりも、ブレイクダウンの共有において重要な役割を果たす。
ブログスフィアで起きているのは、ブレイクダウンを緩和する方法の伝播である。多くの場合、社会の中のブレイクダウンは完全に解消するのが難しい。解消を実現する理論や方法は多くの人にとって解読不能である。ホットエントリーの多くは、ブレイクダウンを整理し対処可能にする方法を示すものである。
ブレイクダウンの共有において、物語と情報処理は交叉している。Web2.0トラヒックが作っているものは、ブレイクダウンとそれを解消するロジック=(フォークナーが定義するところの)プロットのデータベースだったりする。プロットが世に満ちる中、どのようにそのブレイクダウンを解消するかではなく、なぜそのブレイクダウンを語るのか、が問われる。