「ぼくらが物語で遊ぶ未来」の先にあるもの−解釈の偶有性とインプロビゼーション

モダンジャズ、とくにフリーセッションは、少なくとも自分の場合他の音楽とは違う聴き方をしている。次にどう演奏するか予測しながら聴くのだ。自分の演奏体験とコードとリズムの経過に基づき予測した旋律を、実際の演奏と比べる。ある程度予想した通りだったら楽しいし、予想外の展開でもそうきたか!と楽しめる。このプロセスはまさに偶有性だ。これが一般的な聴き方かわからないけど、少なくとも奏者の間では他の演奏者と自身の演奏体験とのインターセッションがある。即興演奏のことをインプロビゼーションと呼ぶのは、他の奏者とのジャムの中であらかじめ準備していたものより優れた演奏が生まれることが多いからだろう。そのプロセスは丁度会話に似ている。そして、インタラクションによって相互理解を得るこのような情報交換において偶有性が重要になる。
少なくとも現在の文章二次創作の最前線では同様のプロセスが働いている。まず、タイトルのリンク先(GeetState)で桜坂氏が述べるように個人は妄想を二次創作作品に仕立てネットで公開する。ただ、そこで消費されて終わりではない。二次創作では多くの読者が書き手を兼ねている。発表された作品が自分の考えているモチーフと近いとやられたーと思うし、予想の斜め上を行くとそうきたか!と思う。自分の理解している原作の世界観とかけ離れていると拒否反応を起こす。
nageっちが下で指摘してくれたように、多くの読み手=書き手の解釈がつき合わされ、妄想の賜物である新しいモチーフやテーマやキャラ造形の中で共通化されるものが生まれていく。
総表現時代では、コンテンツをただ消費するだけでなくより積極的に作品に関わることになる。そこでは解釈を共有するのに加え、作品の理解と表現をimproveするように働いていく。表現の場はジャムセッションのようになり、偶有性のある作品に対する個々の解釈は互いに共鳴し、理解と表現を拡張していく。
以下は補足。
ネットの普及で二次創作のプロセスも確かに変わっている。
同級生2では、インプロビゼーションはほとんど見られなかったように思う。Niftyのパティオを見ていた限り個人の作家性がより重視されていた。
エヴァでは、ギャグの為のキャラ造形が一部共有されていた。あとシリアスで、原作を補完する問題意識と方向性について共通認識があったように感じる。クトゥルフっぽいのとか。その中で「アルジャーノンに花束を」ちっくに登場人物が記憶を失っていく設定を使った作品が多かったのは特筆すべきだと思う。
あとはKanonの話。ハルヒは?