対話について

対話は一言で。 - REVの日記 @はてな

昔、英会話の先生が、対話とは理解をimproveするためにあるものだ、てなことを言っていた。一言で書き記すことができないからわざわざ対面して言葉をやりとりするわけで。一言で済ませられるなら対話する必要がない。あるいは、それは対話ではなく宣告でしかない。そーゆーわけで、(対話の定義によるけど)REVさんのエントリはある層の人にはどーしようもねーなーという話なんだろう。

一方で、いまや対話と記録の役割が逆転してきてる、とも感じる。対話の言葉は、他人とつながるためでなく、他人と切り離されるために発せられる。総表現社会において表現できないもの - END_OF_SCANで、CGMが他人を引き離す言葉を好んで使うことを書いた。生命システムでは集合知は生まれない - END_OF_SCANで、言葉は内輪性を守るために発せられることについて書いた。

逆に記録は、本来離れている人とつながるために発せられる。記録はある程度客観性をもって見られ、容易にメディア化(メタ・ネタ・ベタ化)できるので受け入れやすい。Web技術は記録を断片化し、Googleはそれをランク付けする。これまで、記録というものは内輪に属さないと見られなかった。

上の「仮想世界は(略)打破できるか?」で、3Dの仮想世界と、SNSやニコ動などテキストの仮想世界と、それぞれ使い分けるのだろうという話が出てきた。理解とか認識とか現実感ってやつは、それぞれの内輪の世界に適切な言葉で発信することで立ち現れるのだろう。

もうひとつ。インターネットによって(社会)ネットワーク内でのリンク構造が可視化されるようになった。コミュニケーションをするのに、人の非言語的な立ち振る舞いよりもその人の持つネットワークを使う方が効率的だしそれが重視されている。そのため社会の中での対話の役割も変わってきている。

(追記)討議的民主主義 vs. 参加的民主主義ーー「活発に政治参加する市民」が胡散臭い理由 - *minx* [macska dot org in exile]で同じようなことが紹介されている
(追記)REVさんへ。それは私が上で書いた、記録が対話のように振舞う、という状態だと思っています。