サバイバルとセレンディピティについて、書きたかったこと

この前、iPodに入っていた坂本真綾の「ユッカ」を久しぶりに聴いて、ある一節に衝撃を受けた。この曲のキモといっていいところだ。

どうにもならないことやどうしようもない気持ち / そんなものがきっと道を決めていく

本当にそう思う。飢餓、焦燥、絶望、怒り、喪失。そんな不条理さに相対したとき、自分の中の澱みが燃料に転化する。その感覚を持つことこそがサバイバルへの一歩だと思う。

総表現社会ではまったく逆だ。
「どうにかなりそうなことやネットで後押しされた気持ち」が道を決めていく。ネット社会での起業家精神、あるいは狂気は、ネットの声に後押しされたものだ。著作権などネットのこちら側への反抗は、已むに已まれぬ闘争ではなく、ネットの総意に乗っかった出来レースであり事大主義でしかない。

セレンディピティについても同様のことを感じる。カーボンナノチューブで有名な飯島先生がセレンディピティについて、ちゃんと準備をしていないと奇跡の兆しを見つけられない、というようなことを言っていた。その感覚はすごくわかる。例えば物語を書いていてこの先がどうなるのか行き詰ったとき、いろんな資料に当たり思考をこね回していると、情報を収集するアンテナの感度があがるのがわかる。色んな分野の色んな情報が有機的につながっていき見えなかったものが見えてくる。飯島先生は、ただ偶然にカーボンナノチューブを見つけたのではない、と主張していた。それまでの少し違う研究、さまざまな条件下での実験を繰り返したからこそ、カーボンナノチューブを見過ごさなかったのだと。アテンションエコノミーで情報の価値が決定するGoogle的世界とはまったく逆である。世界から切り離されさまざまな情報の体系を内に作った"私"が、アテンションなど客観的な順列から外れたものを見つけ出すのがセレンディピティだ。「フューチャリスト宣言」を読んでないので茂木先生が言うセレンデピティがどういうものか知らない。ただネットで情報にたくさん触れるようになって偶然いい情報を見つける、というのをセレンディピティとは呼びたくない。

ユッカを聴いて気づいたのは、「どうにもならないことやどうしようもない気持ち」を私が失いつつある、ということだった。ネットがそれらを希釈し他の意思で塗り潰している構図に気づいた。丁度駅のプラットフォームに立っていたんだけど、自分が何をしなければいけないのか本当に一瞬わからなくなった。