「秒速5センチメートル」の遠い音楽

子供の頃とくに中学生だった時に出会った強烈な出来事をずっと引き摺っている、そんなことがある。今でも、氷河の中に閉じ込められたマンモスのように、心の底で眠っている。日常の怠惰な生活で、心は平らかに静かに外界を反射するけど、ふとしたきっかけで裂けた割れ目からマンモスが顔を覗かせる。そんな時心は大きく揺さぶられる。

秒速5センチメートル」はまさにそういうテーマの映画です。

ただ、「秒速5センチメートル」は、他の思い出万歳な映画、一頃流行った懐古厨な映画やクレヨンしんちゃんの「オトナ帝国」とはちょっと違う。少なくとも、各所のレビューを読んでそういうイメージを持っていた私は、いい意味で裏切られた。

子供の頃の体験と、バブルや就職氷河期やらを経た末のリアルに生きる自分との間には、大きな解離がある。たぶんその隔絶っぷりは上の世代にはわからないと思う。情報やメディアにの氾濫によって経験に対する信頼がなくなり、大切な記憶は遠い音楽のように何処かで鳴っている。そんな中で本来離れている人たちが共感しあうには、上の世代のように同じ場所で同じ時間を過ごしてもどうしようもない。「遠い音楽」を交換するしかないのかもしれない。それは、絶望や出発点といった特別な物語ではなく、今を生きることそのものなのだと思う。
ここから先は、演出あるいは効果にかかわるネタばれ感想&分析です。「ほしのこえ」との違いを追記しました。作品を未見の人は気をつけてください。

もちろんこの作品の力は山崎まさよしの歌によるところが大きいんだけど、でもそれ以上に第3話の遠野くんのくたびれっぷりが素晴らしい。第2話でサーフィン始めた女の子の目から彼の完璧超人ぷりが描かれていたからこそ、第3話での現実が重くのしかかる。プログラマーな人はシンクロしてしまうよきっと。
これまでの新海さんの作品は、彼と彼女、二人の距離だけの物語だった。「秒速5センチメートル」はそれよりもオープンになっていると思う。第3話後半の走馬灯状態で、二人のいい思い出だけでなく自分の中の人生の苦味や、彼女の人生の苦味をも想起される。一般的なセカイ系的な作品だと、顕現(エピファニー)ではいい思い出しか流れない。パスがつながったとき向こうにいる彼女は、自分の理想通りの行動をして理想通りの言葉を言う。そこでは世界の境界は自分を映し出す鏡にすぎなく、世界には主人公一人しかいない。しかし、「秒速5センチメートル」では境界の接触は痛みを伴うものなんですよね。なんたって彼女は寝取られてる(w 子供の頃の淡い恋は、どこかで永遠なものとして保たれていない。
でも、それはネガティブなこととして描かれていない。何かを思い続け前に進むきっかけとしてポジティブに描いている。第2話で描かれる種子島のロケットは、その一つの象徴なのです。第1話のラストで去り際に彼女が「遠野君はこれからも大丈夫だよ」というのはそのことと共鳴している。雪で列車が遅れ、泣きそうになりながら、彼女が家に帰っているようにと願いながら、それでも栃木の駅にたどり着いた彼は、確かに何かを思い続け最後まで行動する力を持っていた。
彼にとって彼女は、脳内の女神というより、自分の行動を裏づけする何か、決断するきっかけである。その上で信じるものも蹉跌もまとめて受け止めるという点で、「秒速5センチメートル」は「ほしのこえ」あるいはセカイ系な物語と決定的に違う。あるいは「センスオブワンダー」な思いを全肯定する20世紀SFと違う。
あと重要なのは、この話はやはり実写では成り立たないという点。ノイズなく細部までくっきりと見えるからこそ、彼の見る回想、彼の信じるものが確かなものとして伝わってくる。モチーフの絶妙な匙加減、CGでの表現手法がテーマに転化されている点で「秒速5センチメートル」は優れた作品だと思います。


ほしのこえ」は「ぼくは(わたしは)ここにいるよ」で終わる。東浩紀の「コンテンツの思想」内の鼎談「セカイから、もっと遠くへ」によると、西島大介は「凹村戦争」はそのアンサーであり「もはやここにいない」あるいは「いるのにいない」というのを書きたかったらしい。では、この作品では何を確認しているのか。
上記鼎談のラストで新海さんがこんなことを語っている。

東さんがおっしゃったとおりで、『ほしのこえ』の最後、「ここにいるよ」って声が重なっているじゃないですか。あれは状況としては、別に重なっていない。それは最初から自覚的にやっています。僕があのなかで言いたかったのは、演出的に重なっているように見えるんだけど、現実は別々の場所に生きていてそのさきを生きていかなければならない。その、次に行かなきゃならない。話の外を「ここにいるよ」っていう言葉にこめたんですね。

踏み切りですれ違ったとき、彼女は「ここにいるよ」とメッセージを出したわけではない。現実にそういう声は届くことはほとんどない。それでもその先を生きていかなければならない。どうやって?

この作品で彼が確認するのは、"ここ"という場所じゃない。作品のサブタイトルはこうである。『どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか』。種子島の高校では彼はサーフィンをする彼女より先を生きていた。上京した彼はプログラマーとして毎日を機械的に過ごしていくなかで徐々に磨耗し、やがて会社を辞める。彼女に追いつこうと急いでいたのに、自分がどんな速度で生きているかわからなくなる。

丁度suikyoさんが下のエントリーでコメントしてくれている。「ネットを見ていると、今がいったいいつなのか分からなくなる」と。自分が他人と(大切な人と)同じ速度で生きているのか確かではない。それは切実な問いだと思う。

桜の花びらが散る中で彼が確認したのは、彼女と同じ速度で世界を感じている、ってことなんだろう。今ここにある花びらはあの頃と同じではないけど、秒速5センチメートルという速度は同じだということを。