図書街

松岡正剛さん提案のプロジェクト。
紹介は、http://www.isis.ne.jp/cdn/0511.htmlhttp://www.sfc.keio.ac.jp/visitors/whoswho/20060703.htmlなど。

昔アイデアだけ聞いたとき、図書館と何が違うねん、と思っていた。下で触れているフィードビジネス・サミットにおける紹介の映像において、図書街の地図を見たとき、正剛さんが何がしたいのか少し分かった気がする。

都市の破壊と再生―場所の遺伝子を解読する」という本で、イタリアのレッチェという街のフィールド研究の成果が紹介されている。

同じバロックとはいえ、ヴァティカンの公権力による大掛かりな都市計画で実現したローマのバロックとはまた異質な、人間の身体感覚と結びつく変化に富んだ演劇的な空間を作り出している。レッチェでは身近な街路や住宅など、市民の生活空間そのものが豊かなバロックの表現を示すところに大きな特徴がある。
(中略)
「計画された都市」が、住民のニーズやセンスによって「生きられた都市」に変容したといってもよい。何本もの道が集まるポイントには不整形な小広場が生まれ、また、街区の内側や奥へ向かって庶民の生活の場としてのコルテ(袋小路)が無数に入り込んだ。

私が図書街の地図を見た限り、街路は決まった形でなく折れ曲がり、区画から中に向かうほど複雑になり、そして、多くの袋小路と小広場があった。
図書街が目指すのは、情報の系統化だけでなく、そこに入り込んでいったときに情報のリアルな意味がぶつかって現れてくるようなトポスの生成なんだろう。より身体的で劇場的な知の空間の創造。公的な空間の中に私的な空間が襞のように織り込まれ、全体を感じながら局所に存在するような情報空間。
上記の本の成果報告で筆者たちが街に「バロックの空間演出」を見出したように、図書街の背後にあるのはバロックの思想なのだと思う。ちなみにバロック論については、「襞―ライプニッツとバロック」がかなり最強なのでぜひ。
それを踏まえて、正剛さんの講演中の「ウェブ進化論」批判を読むと、何をしたいかがとてもよくわかる。正剛さんは、仮想空間にロンドンのコーヒーショップを作りたいのだろう。Webのように単純に情報がつながっているのではなく、教会建築のように大きな情報と小さな情報が構造と装飾の関係をなす場所を作りたいのだろう。コーヒーショップでの小さな情報の爆発がそのまま物語と言語と政治を作っていったように、集積した情報が突然変異するような場所を作りたいのだろう。
その考え方にはとっても賛同する。でも一方で、日本なのにバロックかよ、とも思う。日本は、もっと間がすかすかで、空間は袋小路ではなくて、背後の情報は借景としてとってくるものだったりする。3月頭に開催された「モバイル社会シンポジウム」で、ドコモが主催した「ケータイ空間デザインコンペ」の審査結果紹介や総評を聞くことができた。テーマは「ユビキタス社会のパブリックスペース」だったのが、上位にきたのはどれも建築に借景を持ち込むというものだった。最優秀賞受賞作は、個人の私的空間をボーダーレスに寄せ集め並べることで公的空間らしいものを作ってしまうというものだった。まぁ、審査員がみんな日本人だったからというのもあるけど。

建築が距離(プロセミクス)を批判しながらもそれから逃れることができない一方で、情報学が身体性を回復するために距離を得ようとしている。図書街は立派なアプリーチだしすごいと思うけど、もしかしたら互いに他の知識領域を求めてぐるぐる回っているだけなのかもしれない。
雑な論考ですみません。てかまじめに書こうとすると、大変なことになるし。正剛さんの講演中のコンテンツと言語の話についても書かなきゃ。