さらに飛躍する

社会が集積するにつれ、人は、ノイマン型コンピュータに近づいてきているのではないか。行動を作動するためのインタプリット可能な言葉(違いを切り捨てる切り口)のみを解釈し、集積した回路の一つとして動作する。
もちろん、社会とCPUはアーキテクチャが違うので、言語も、APIトートロジーも違う。でも、命令と行動する主体との切り離されっぷりはなんか通じるものがある。単に、社会やイデオロギーによって行動が規定されるというのではなく、ある言語で命令セットとして記述されている必要があるというか。

あるいは多段継承か。森博嗣先生は、人間はメソッドと属性をカップリングして持つオブジェクトみたいなものだ、てなことを言っていたが、今やどこかから継承してきたメソッドの方が多すぎて、オブジェクトとして扱う価値が低くなっている。環境コントロールが社会デザインにより効果的なのはその表れだと思う。