ソーシャルメディアでのコンテンツアクセスモデル

ネットで表現することがコンテンツ視聴の動機

ユーザは興味のあるコンテンツについて自ら進んでネット上で記述する。その内容は、作品の内容を知らない第三者のために書かれたものではなく、評論のように論旨のある文章でもない。しかし、独り言を全世界に伝播させるWeb技術に示すようにコンピュータが処理しやすいように構造化されたフォーマットで記述された文章は、容易に第三者の目に触れることになる。

ユーザは、テレビ局による編成の限界に示したようにテレビの文法を真似る形でネタを作り、あるいは簡単な感想を述べる。そのいずれもが表現となる。表現が第三者の注目をあびると、ユーザはより進んで表現するようになる。

コンテンツ=言語

2005年末にあった「のまネコ事件」はコンテンツの意義の変容をみてとることができた重要な事件である。レコード会社が楽曲のプロモーションのために2ちゃんねるで広く使われていたアスキーアートにそっくりなキャラクタを著作権物として登録したとき、2ちゃんねるユーザは強く反発した。彼らが表明した理由は2つあった。1) 2ちゃんねるで無償で使われているキャラクタで金儲けをするのは許せない、2) キャラクタを自由に使えなくなるのは許せない、である。一方で、商業作品のキャラクタを元に勝手な創作活動をすること、その作品を売買する者たちには寛容的である。何故彼らは強く反発したのか。
アスキーアートは文章に挿入され、言語化できない感情を表す。彼らはアスキーアートを、感情を表す表現=言語として用いている。言語の意味が歪められ失われることは、彼らの拠って立つ世界そのものに影響を及ぼす。
ユーザ=視聴者がコンテンツに自身の感情を添えて表現活動を行うとき、コンテンツはユーザの感情とカップリングされる。そのときコンテンツは言語としての側面を持つ。Web技術はコンテンツに同等の感情を持つ人、あるいは反対の感情を持つ人を容易に結びつける。ユーザがコンテンツの感想を共有するとき、コンテンツはそれを媒介するものとして働く。コンテンツのパラダイムシフトに引用したボードリヤールの「消費社会の神話と構造」はそこにはない。ネットのコミュニティ主体の経済活動、AAを代表に創作物と言語活動が一体になっているネット世代、Web2.0にみる欲望消費が新たな知を生むというパラダイムは、まさにボードリヤールの視野を超えている。この辺りは多分、東浩紀が近日刊行する「動物化するポストモダン2」に書かれる内容だと思う。

コンテンツを切り出す/加工することが表現

上に述べたように、視聴者はコンテンツのシーンに関連付けて表現を行う。その場合、その人がどのシーンに注目しているかという時刻情報すら表現となる。
世界からシーンを切り出すことは、映像表現の根底にある欲動である。キッヒラーは大著「グラムフォン・フィルム・タイプライター」という本において、メディアの技術革新が起きた時点に遡って記録を辿り、メディアの本質をあぶりだそうとしている。彼は映像に対し、瞬間を切り出すことが映像作品の本質であると述べている。プロの映像作家が実世界から映像を切り出し作品にするのと同じ動機付けで、視聴者はこのシーンが面白いと表現する。One Dimensional Societyに述べたネットのあちら側の思考法およびWeb2.0技術は、その表現を多くの人が共有するのを助ける。

インフルエンサー=マスコミ

新しい伝播モデルと視聴ライフスタイルに述べたように、インフルエンサーがコンテンツの評判を広める役割を果たす。インフルエンサーによる表現は、テレビ局による編成の限界に記したようにコンテンツの内容をより効率的にメタ/ネタ/ベタ/オタ化したものである(評判になっているブログエントリーは確かにそうなっている)。多くのアテンションを集めるインフルエンサーは、既存のマスコミのような役割を果たすことになる。