書く側も読む側も人それぞれだけど

スタージョン先生曰くあらゆるものの90%がクズというなら、意味が通じるのはせいぜい10%だ。なら10%にだけ真意が通じればいい。少なくともそういうスタンスのブログの方が好きだ。
というか、マイナーなときは自由闊達に書いていた人が、有名になってきて、やたら啓蒙ぶったり(使命感に目覚めたのだろうか)、ポエマーになったり(美文の積もりだろうか)、挙句何かプロモートしてみたり(よけいなお世話だ)するのを見るにつけ、ぐんにょりしてしまう。またそれが、自分と同世代っぽい思考構造が見え隠れするとへこんでしまう。そこに跳躍はなく、読者に応えようとするいじらしさばかりが先に立つ。
読者は責任とか分かり易さとか無数の刃を突きつける。チープ革命により、あらゆる人がその刃に向き合うことになった。
書き手が読者とかけ離れたところで表現を突き詰めることは今後あるんだろうか。宮沢賢治のようにペドで妹萌えが「春と修羅」のような透徹した表現を完成させたり、夢野久作のようにチャカポコチャカポコをン十年も推敲した末に「ドグラマグラ」のような奇書を完成させることがあるのだろうか。