デスノートその他の物語

私のHPからの転載。expireしてたので。

デスノートというアホな設定が推理ゲーム自体の面白さを際立たせているのだけど、3巻に入って抜群に面白くなってきた。

探偵小説がその隆盛を誇ってた時から、みんな推理ゲームそのものの面白さを知っていたわけで。けど人の死が関わっているのに無邪気に楽しむのは不見識だというブレーキもあった。だからこそ、探偵小説は、犯人=中心化、探偵=脱中心化、という構図を受け容れてきた。トリックスターでなければ、人の命を弄ぶ驚異である不可能犯罪に立ち向かえなかった。

『虚無への供物』がアンチミステリなのは、この構図の欺瞞と消費中心となった世界の変容とを重ね合わせたところでしょう。それ以上に『虚無』が優れているのは、そのような下世話な小説の都合とは別のところで、推理ゲームが喜劇的に繰り広げられているところ、そしてキャラが魅力を発しているところにあると思うのです。
『虚無』では、犯人が前近代的美徳を背景に、消費中心となった世界の変容に対抗しようとしました。作品の最後で犯人は探偵たちに次のようなことを叫びます。精神病院の塀の中と外のどちらに真実があるというのか、と。

今の我々は真実がどちらにもないことを知っています。唐突ですが、『空の境界』がすごいのは、精神病院の中と外のどちらも空虚であるだけでなく、塀(=周縁)すら空虚だと言ってしまった点にあります。

デスノート』もまた、アンチミステリですらないミステリなのでしょう。月と、警察、その間にL、と倫理に対する階層を複数用意している点、デスノートのルールがすべての上位にある点など、すごく巧い。
で、2巻までは、月 vs 警察&L、という1対1での知能比べだったんですよね。それが3巻では探偵小説的なお約束をどんどん破ってくる。

まず、ロッキングチェア・ディテクティブだったLが、直接月と接触する。しかも、旧来的な探偵小説なら互いに相手の素性を知った上で推理を語り合う決闘のシーンになるところがそうじゃない。互いに相手の素性をぼかしている(知らないわけではないが確信もない)。そして推理合戦ではなく、相手がどう推理しているかを読み合い、化かしあいをしている。テニスのシーン、かっこいいです。
その直後、「キラ」からTV局に大胆な声明と殺人予告が送られてくる。探偵小説的には、犯人と探偵の対決は1対1の正々堂々でなければならないんですよね。そこで読み手にミスリードが発生する。名前を知られてない筈の刑事が殺され、月の父が殺される危険を顧みずTV局に突入する。少なくとも私は騙されてとても楽しめました。

あらためて、『虚無』が時代遅れになるほど遠くにミステリィは到達したのだなぁ、と思いました。

12巻での決着の付け方は、私も軽いと思わないでもない。でもそれでいいじゃないかとも思う。勧善懲悪どうよみたいな反射的感想とか、これは思考実験で云々みたいなメタな批評もできるけど、それよりも、ミステリィの枠組み(悪徳を脱中心化する探偵)を超越した上で推理をエンターテイメントとして最後まで描ききった点に敬意を表したいと思う。