悲劇のない敗退

今回のW杯は、最初からずっと萎え気味だった。選手のイメージから、試合スケジュールまで、商業主義が蔓延している。ただ、その事自体は覚悟が出来ていたはずだった。
本当に堪えたのは、チームが負けたときだった。
今やテレビの中で起きることを真に受けるものはいない。イメージが作り物なのを知ってて斜に構えながらもあえてコミットして見ている。期待はメタで吹けば飛ぶようなものだ。イメージが崩れたとき、落胆もできない。
スポーツナビのコラムでこのような記述があった

ブラジル代表が素晴らしいのは、ただ単に強いだけでなく、その負けっぷりも「悲劇性」に満ちていたからこそ、人々から畏怖されながらも愛されていたのだと思う。その観点から今大会のセレソンを考えてみるに、どうにも敗者としての美しさや悔しさが感じられないのは、どうしたことか。今大会のブラジルは、タレントの数でも戦力でも、間違いなく世界一であった。にもかかわらず、彼らは自身が本来持っているはずの戦闘能力を100パーセント発揮することなく、あっさり大会を去った――。
 極論するなら、これは「裏切り」以外の何ものでもなかったのではないか。
/ 宇都宮徹壱「フランクフルト散策」

悲劇すら、そこにはない。ただの茫洋だ。美しく負けることすら許されない。チームが我々を裏切ったのではなく、サッカーが我々を裏切ったのだろう。
能力のある者、権威づけられた者が敗れたとき、イメージは墜落する。そこで初めてイメージの是非が我々に委ねられる。敗れた者を赦すとき、イメージは普遍的になる。受難(パッション)が信仰の深さ(パッション)を問う。裏切りによって、英雄性/信念/愛は普遍性を勝ち得る。その倒錯性が神話を生む。
FIFAの商業主義・電通の視聴率主義は、倒錯を、物語を、我々がコミットする仕組みを虚ろにした。軽やかにイメージを渡り歩いた涯にあったのは、虚ろへの自己言及だった。
サムライ・ブルー
「サムライ」たちは何に侍ったのだろう。日本代表には二つのイメージがあった。一つは、中田と川口が以前の日本代表から受け継いだ、誇りをベースにした戦い続ける姿勢。もう一つは、連帯感と均質性をベースにした組織的サッカー。後者が実を結ぶことはなかったし、前者は中田の引退で途絶えることになる。"受難"において、継続する意志の強さ(パッション)を見せた者は誰一人いなかった。結局どちらも普遍性を勝ち得ることはなかった。宣伝マンの責任逃れのため、「世紀の失言」が演出された。そして、中田の引退を持ってして、ジーコジャパンの4年は真に空白となった。
日本サッカーの敗退は、悲劇ではなかった。戦争が虚ろになったようにサッカーは虚ろになった。ドラマを無に帰した電通の罪はとても大きい。