エスタブリッシュ層の表現とネットでの表現

上のエントリーおよび、文中に引用したブログのコメントを読んでも分かる通り、表現することに対し、エスタブリッシュ層(梅田さん言うところのネットの「こちら側」)が持つ意識とネットユーザ層(ネットの「あちら側」)が持つ意識は違う。

ざっくり言うと、「こちら側」の心情ってのは、話せばわかるなのでしょう。多様性美徳。異なる価値観を持つもの同士が分かり合うことが至上命題。一方「あちら側」の心構えってのは、わかるやつにしか話さない、なのでしょう。すべて自己責任。多様性は諸刃の剣。異なる価値観は捨て、共有の価値観だけを取り出せばいい。ソーシャルメディアはそのための知識集約を支援する。が、リスクマネージメントは支援しない。
我々がブログを書き散らしているネットの「あちら側」にとって、ネットの「こちら側」つまり行政機関やマスコミや政治家らの情報こそが「外」の情報なわけです。Wisdom of Crowdsで最も重要なのは知の多様性です。しかし。
エスタブリッシュ層の表現は、総表現世代に相容れない。それに対してネットはどうしているか、というと、「これからはネット文化だ。お前ら俺らの分かる方法で話せ」なのです。謂わばネット中華思想。互いに傲慢なのです。価値観の多様性についてのメタ価値観を相手に押し付けている。
多様な知識を集約するための方法論・philosophyが本質的に違うのです。まずそれを認識しないといけない。
梅田さんが言う「言葉を尽くす」の目的は、「ネットのこちら側の人にあちら側を知ってもらう」なのでしょう。でもそれじゃ絶対的に足りない。ネットのあちら側の人だって、こちら側を、特に論理と言語、そのメリットとリスクを知るべきでしょうね。
残念ながら、今のネットのアクティビティにそれを見出すことはできない。知識集約の方法はエスタブリッシュ層だって持っている。ネットにおけるいくつかの言説(例えばR30氏)はまずそれを否定するところから始めています。そのさもしさは、私にとっての撃つべき神です。