反証主義と集合知

2ちゃんねるでのホリエメール検証は、集合知のもっとも良い側面を見せてくれていたと思う。同時にessaさんのブログでのその後のやり取り「「堀」「掘」誤報の件検証」を読むにつれ、集合知獲得のプロセスでは何が難しいかも明らかになっているように感じる。それは丁度科学的手法と対であるようだ。

問題があるとしたら、「署名の前の塗り潰し」と「堀の字形の問題」を一組の問題として取りあげて考えた(他の論点を無視したわけではなくて、最初にクローズアップすべき分割された問題であると見なした)そのフレームワークそのものに対する批判的な姿勢がなかったことだと思います。実際、単なる土へんの塗り潰しだとしたら、その塗り潰しの範囲が左に大きすぎるので、それは何故だろうと一瞬思いましたが、それについては「まあいいや」とスルーしてしまった記憶がかすかにあります。「問題の提起と解決を同時に行なう」ような主張には、もっと注意深くあるべきかもしれません。

フレームワークを優先し個別のデータの曖昧さを置いておくこと、「問題の提起と解決を同時に行なう」姿勢は、科学的アプローチとは反対のものだ。集合知をもたらすアテンションエコノミーは、誰もがもっともらしいと思う可能性に集中するため、他の可能性を検証することが難しい。今のところ、集合知反証主義とは馴染みにくい。
そういえば、「モヒカン族」こと原インターネットユーザーは、この正反対だった。問題の曖昧さを絶対スルーしなかったし、問題の提起と解決は徹底的に分断していた。でもモヒカン族にも問題はあった。インターネットノービスな人に恐怖を振りまいていたしね。
集合知と科学的手法が対極にあるとしても、どちらが正しい、ということではないのだろう。問題解決のフェーズごとに必要な技術は異なっている。それを見極める力(それはきっと教養(liberal arts)と呼ばれるものだ)こそが求められるのだろう。