グラモフォン・フィルム・タイプライター−導入まで読んでの覚え書き

あまりに積み本がたまってきたので改心して読み始めることに。とりあえず何を考えるべきかを忘れないように書いておく。

・シンボルはイマジナリーを再生するための手段だ。人はシンボルによって時間を超越することができる。記憶の忘却に関する物語が多いのは、シンボルとイマジナリーの関係をメタに描いているということではないだろうか。物語がシンボル化しているというのは、単に形式だけの意味ではなく、世界が自己言及的になっているのに応じて、シンボルが自己言及的になっているってことではないか。

・単純に象徴界の力が強くなっていると考えるのは問題を簡単にしすぎているように思う。

・とはいえ、シンボルがリアルに近い表現力を得ることで、リアルとシンボルが可換であると錯覚する、というのはそうかもしれない。斉藤環氏の話をフォローしないと。

セカイ系とは、あらゆる意味を伝えられるシンボル群を仮定した世界ではないか。普遍言語の存在する世界。

セカイ系はまた、他者のいない世界を描く文学だ。同胞を望むべきか、普遍言語を望むべきか。同胞を囲むこととシンボルの拡張を拒むことは同義だ。

・音声と映像は、文字に比べれはエントロピーが低い。そして勿論、現実そのものを写すことはできない。音声と映像もまたシンボル化される。デバイス、インターフェース、伝送路がそれを規定する。カメラのレンズ、構図、編集、あるいは変換係数と量子化。シンボルが崩されるとき、違和感を感じるのは映像でも同じだ。不気味の谷

・送り手と受け手の了解がなければシンボルは意味をなさない。識字率の問題。行動が思想を規定する、逆は不可。

・音声と映像に限らず、人もまたシンボル化される。ロボットにおける不気味の谷もまた、シンボルの逸脱の問題だ。

・動作もまたコードとして記述するフォン・ノイマンのアプローチは示唆的だ。それはシンボルのコンテクストを外在化している。人が文字というシンボルで時間を超越するように、コンピュータはプログラムによって時間を超越する。

・文字メディアを収集する文書保管庫が権威を持っていた過去では、規律訓練型の権威が成立していた。現代に環境管理型の権威が成立するのは、散逸するメディアをそこにあるままデジタルのデータとして収集する手段が確立したからである。


以上のような観点で、超臨場感へ進む映像技術、Webプラットフォーム、ロボット、プログラム、物語に対して、既存のメディアの発明(グラモフォン、フィルム、タイプライター)からの外挿で未来にはどうなる(べき)かを想像することができる、といいなー。