総表現社会において表現できないもの

なぜ勉強するのか、という問いへの答えはその一つだ。

子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明 - 分裂勘違い君劇場

私もかつて、これらのエントリーが流行る前に、何度も、勉強について書こうと思った。しかしいつも、その言葉は上滑りする独りよがりの類だと思い直し書くのをやめた。次の日になって恥ずかしくなる内容の自分語りも、ブロゴスフィアではまかり通る。みんながそれを求めているからだ。

今読んでいる高橋源一郎の「ニッポンの小説―百年の孤独」の一説を思い出す。

おそらく言葉というものは、コミュニケートするために用いるはずなのに、実際には、その逆に、人々をコミュニケートさせないようにするために存在することがあるといいたかったからです。

ブログで使われるのはまさにこの類の言葉だと感じる。

ブロゴスフィアの誰か一人でも、fromdusktildawnさんや結城さんや住さんや他のブロガーの回答を読んで、勉強しないといけないと思った人がいるんだろうか。きっと、ふーん勉強できる人はそう考えているのね、てな感じだろう。私はそうだ。fromdusktildawnさんが書くように、それは一方的な説明であり、意思の疎通ではない。

文章を(特にブログにある意図を持って)書くとき、自分の感覚をあるインターフェースに合わせて翻訳しているように感じることがしばしばある。多くのホットエントリーに技巧が透けて見え、あざとく見えることはよくある。

高橋源一郎は、散文で語るという「マインドコントロール」について語る。

目の前に、彫刻がある。すると、どうなる。ぼくたちは「鑑賞」しようとする。
(中略)
では、彫刻家は、他人の彫刻を「鑑賞」するだろうか。あるいは、「映画監督」は、他人の映画を鑑賞するだろうか。音楽家は、他人の音楽を鑑賞するだろうか。
「鑑賞」するということが、そのことを媒介にして、結局は散文で語る、ということに収束するしかないのだとしたら、彼らは決して鑑賞はしないだろう。
おそらく、彼らは、彼ら自身の創造の経験を反復するような形で、目の前の作品を、ただ「見る」(「聞く」)だろう。そして、その間(終わってからも)、彼らは、一言もしゃべらないだろう。「散文」は、彼らが「見る」(「聞く」)ことにとって、邪魔にしかならないのだ。
「鑑賞」するのは、「散文」にマインドコントロールされた消費者(鑑賞する人たち)だけなのである。

ブログの文章の多くは、ブロゴスフィアに属する人にとって口当たりのよい、親密さを感じるような、それでいて読んで意味が通じるような、話し言葉のような書き言葉で書かれる。その表現形態は、アテンションエコノミーの荒波に揉まれた末の成果である。文体、テイスト、対象との距離は自ずと限定されてくる。例えば、どうして、日本のギークによるオフィシャルでない外国語ドキュメントの翻訳は、「〜はさ、なんだよ。〜ということだ」てな語尾ばかりなのだろう。
とはいえ仕方がない。我々は、ブログでみんなに読んでもらうにはくだけた表現にするしかない、とマインドコントロールされているのだから。しかし、ブロゴスフィアの誰か一人でも、fromdusktildawnさんのエントリーの文章に、"強いて勉め"なければならない苦しさみたいなものを、少しでも感じた人がいるだろうか。誰が書いても、勉強の仕方を知っている人による成功体験の紹介になるだろう。ダイエット成功の体験談と大差はない。

そもそも、みんな気づいている(人力検索とか見れば明らかな)ことだが、Web技術は人と人とを繋いでおくことで一人で勉強しないですむように進化している。(上にあげた回答者たちの世代にとっての)勉強する行為と、Web技術とは相反するものである。そして、森博嗣が言うように、多くの場合、学問は日常の営みとかけ離れた無駄なものであり、有用性を追求するWebとは正反対のものである。だから、子供にどうして勉強しなきゃいけないの? と聞かれたら、ネットが賢くなるから勉強しなくていいとでも答える方が今この時には正しい。


しかし、進化したWebの社会では、勉強の意味、勉強のやり方、勉強の価値を学ぶことは非常に難しい。

本当に勉強しなければならない理由が発生するのは、サバイブしないといけないときだ。周囲と自分とに能力の格差があるから勉強する。他者と対話できるようになるため勉強する。その已むに已まれぬ悲壮感、恍惚と不安、困難を乗り越えた歓喜は、ブログの楽天主義と全く反対の向きのものだ。


高橋源一郎は文学と言葉を次のように定義している。

「文学」とは、遠くにある異なったものを結びつける、あるやり方のことです。なぜなら、「文学」は、言葉だけで出来ていて、しかも、言葉とは、要するに、遠くにある異なったものを結びつけるための出来たものだからです。

ブログでよく使われる、繋がりが維持されている人たちのための言葉は、切り離された人のための言葉ではない。切り離された人たちを記述することはできない。
文章表現の不可能性を嘆いているのでも、ブログでの表現に絶望しているのでもない。冒頭の質問への回答者たちの説明が不毛だと言っているのでもない。指摘したかったのは、総表現社会での表現は、通常の散文表現以上に「人々をコミュニケートさせないようにする」ことがあるということだ。