立石寺/米沢

宿での朝食の時間もあって、この日は、立石寺と米沢のみの観光となる。当日の予定は以下の通り。

  • 肘折温泉10:00→新庄10:55
  • 新庄11:40→羽前千歳12:45
  • 羽前千歳14:04→山寺13:15
  • 山寺14:57→山形15:17
  • 山形15:24→米沢16:17
  • 米沢20:12→東京22:24

本当はもっと早く出たかったんだけど、肘折温泉発がこれしかなかったんですよね。

新庄は冨樫義博の出身地ということで、彼のデザインした「かむてん」というマスコットキャラの絵がバス停に飾っていました。3頭身のじっちゃんの天狗なんですが、一目見て冨樫なんだけどいい感じに愛らしいのがさすがです。新庄には新庄公園とか観光できそうなところもあるのですが、微妙に時間もなく、昼近かったこともあり、山形の代表的な駅弁である牛肉どまんなかを買って、列車が出る前に食べてしまいました。

立石寺のある山寺へ乗り換える羽前千歳の狭いホームは、観光客でいっぱいになっていました。立石寺芭蕉の句でも有名とはいえ、山寺という駅名も大胆ではあります。

駅を降りると、せり立つ山壁にお寺の屋根が見えます。登山口とある石段を登っていくと、根本中堂があります。賽銭箱に布袋像が載せられていました。肩や腕に小僧の神様を数人載せているが本人は意にも介さずにこやかに笑っている。お腹をなでるとご利益があるとのことだが、その謂れも含めて狸みたいです。

境内は広く、歴史のある寺らしくさまざまな像や石碑や石塔があります。特にびっくりしたのが清和天皇供養の御宝塔。天皇崩御したときに供養のために建てられたということで、どんだけ古い年と。あとは例の句の石碑があちこちに建てられていました。立ち並ぶお堂沿いに境内を歩いていくと、奥の院まで登っていく石段があります。割りに距離はありますが、前日までのスパルタ観光のおかげで驚くほどさくさく登ることができました。

切り立った崖と森閑とした並木の合間に、当時の霊場の跡が残っています。特に大きな岩に削られた窪みが阿如来の姿に見えるという弥陀洞が民間信仰らしくてやばいです。また、せみ塚は芭蕉が例の句をしたためた短冊を土に埋めた跡に立てた碑だそうで。

思うに、佐渡から酒田、鳥海山羽黒山最上川、と芭蕉奥の細道の道中を逆に辿っていて、土地ごとに芭蕉の句碑を目にしたものです。旅の最後に立石寺にたどり着いたのはなにやら感慨を覚えます。

つづら折の石段を登っていくと、有名な開山堂と納骨堂が見えてきます。青空の下、崖の上に立つ納骨堂の後ろには連なる緑の山が見え、夏に来ることができてよかったとしみじみ思いました。さらに登って奥の院にお参りし、岩場になっている境内を歩いていると、かつて修験道霊場だった名残を見ることができます。岩壁に小さな窪みがあちこちにあります。修験者が登ったり岩穴に留まった跡だそう。反対の峰にはとても人が立ち入れなさそうなところにお堂が建っています。今も修行に使われているのだとか。

境内の奥には絶景を望める五大堂などまだあるようなのですが、電車の時間もあり急いで山を下りたのでした。駅で電車を待っている間、遠くの蝉の声を聞いていて、ああ、あの句の意味はそういうことだったのか、と思いました。しずけさや岩にしみいる蝉のこえ。かつての名残を見せる山寺でしたが、修験者たちの声明はいまや聞こえることもなく、彼らのあった岩に届くのは遠くに鳴く蝉の声でした。小学校の頃、この句の言葉の選び方がすごいなんて説明を読んで、句の良し悪しってそこなの?なんて疑問を持っていたのですが、30年も過ぎてこの句の良さがわかったように思います。振り返ってみれば、佐渡の採掘場、新発田城の辰巳櫓、出羽三山の修験場、庄内の町並と、つわものどもの夢のあとを追う巡礼の旅でした。

 残りの時間の観光と夕食は米沢ですませました。とはいえ、米沢市内では移動手段がなかったので残念なものに。市内の循環バスっていっても2時間に1本のレベルなんですね。前田慶次の鎧を収める宮坂考古館から米沢城址である上杉神社まで歩くと時間は5時すぎで宝物殿など閉館になっており、伊達政宗生誕の地の碑と、上杉鷹山の像を見るぐらいでした。また米沢駅まで歩いて戻り、焼肉屋でロースなのにサシが入っているA5肉などを食べたのでした。