シン・ゴジラ雑感

 

怪獣が災害にかわるとき 

シン・ゴジラにおいて、ゴジラは過去作品のように華々しく光線を発射せず、最初ゲロのように口から汚泥を吐き、その後垂れ流すように炎を伴いながら光線を吐く。シン・ゴジラが原子炉のメタファーならこれはメルトダウンを思い起こさせるし、動く自然災害であるなら火砕流と姿が重なる。
米軍機が爆弾を投下するまでは、観客は町の景色を自分の生活の延長上に見ることができた。東横線沿線に住む私はゴジラが武蔵小杉の高層マンションをかいくぐりながら進撃するのを器用やなあと思いながら見ていたし、多摩川防衛ラインをめぐる戦闘は特に印象深かった。米国が介入するまでは、ゴジラという怪獣に対するニッポンの迎撃(とその限界)が描かれていた。カメラの目線も町並みが破壊される様と逃げ惑う人との対比でゴジラを映していた。

「爆弾」が投下された瞬間から、ゴジラは世界レベルの災害(人災であり天災)になり、対ゴジラは日本の手を離れたイシューになった。レイアウトもそれを意識したものになっていたという印象がある(印象論ですみません)。ここで主要な登場人物であった町並みは退場することとなる(町並みが主要な登場人物といえばP2ですね)。観客は自らの住む町から引き裂かれ、ただ顛末を見届けることしかできない。自分の町が破壊されているのに自分が属する集合体(国家)は事態をコントロールする術はない。ガメラウルトラマンのように仮託できる大きな力も存在しない。観客は、そして劇中の登場人物は、かろうじた残された希望であるヤシオリ作戦に賭けるしかできなくなった(その点において観客と登場人物の目線は一致している)。

シン・ゴジラ:感想(約1万5000字:未鑑賞者の閲覧を禁ず) - 六月の開発局

に記載されている「人は誰でもウルトラマンになれる」は慧眼だと思う。しかし、このウルトラマンは人と同じ大きさでしかも一人ではない。宇野常寛は「リトルピープルの時代」でウルトラマン仮面ライダーについて書いた。このウルトラマンもかつてのウルトラマンのようにはリスクなしに害悪をなかったことにはできない。最悪の事態にならないよう対策を打つだけである。なかったことにするには日本全体を代償として差し出すしかなかった。

「わたしは好きにした、君たちも好きにしろ」という博士の遺言ほどには、残された者たちに選択肢があるわけではない。ヤシオリ作戦の怒涛の投入は樋口監督の過去作品と重なるのだが、爽快感はあってもカタルシスはそれほどは感じることができなかった。解決が保留されているからだ。ゴジラも活動は停止したが殲滅には至らなかった。

では、彼らの行動は無駄だったのだろうか? それこそがこの映画が最後に問いかけてくることだと思う。「パトレイバー」で印象に残っている台詞に、「警察の仕事はそのほとんどが負け戦だ」というのがあった(原典にあたっていないので正確ではないと思いますが)。先ほどググったら「サイコパス」でも同様の台詞があったことをゆうきまさみ先生がtwitterで言っていた。「巨災対」の戦いも「また、負け戦だった」。でもそのことは、彼らの献身を貶める理由には全くならない。勝利が得られないからといって、好きにしてはいけないことはない。

 打ち払えないダモクレスの剣の下でどうやって「好きにする」のか。負け戦の中で小さなウルトラマンになれるのか。シン・ゴジラはその演出と舞台装置によって、怪獣映画としてのエンターテイメントを実現しつつ、現実からの延長では想像が難しい問いかけを声高に叫ぶことなく観客に想起させようとしている。

というのはわかる。それが伝わるだけの脚本であり演出だったと思う。だが、メルトダウン以降のゴジラの恐ろしさによって引き裂かれてしまっている観客にとっては、この問いかけもつい目を背けたくなっちゃうかもしれない。もし瑕疵をあげるとしたら、怪獣が災害に移行する過程をもっと繊細に描くべきだったところかもしれない。あるいは、キャッチコピーが言うほどには最後まで「ニッポン対ゴジラ」を貫いてなかったところかもしれない。

でも、その困難さもまた真実なのかもしれない。上記の問いかけは、パニック映画が盛んだった20世紀よりも難しい問いになっていると思う。勝ち馬に乗りたがる人がネットで容易に繋がることができる今の時代においては。だからこそ、庵野監督がこそ投げかけられる問いかけとも言える。EVAで負け戦を続けている庵野監督だからこそ。