「リトル・ピープルの時代」

村上春樹評論までのメモ。
「現代において私たちは誰もが不可避に小さな「父」として機能してしまう」というのが釈然としない。ソーシャルな互酬系に依存していたらそうかもしれんが、拒絶できるものだろうよ。とりあえずtwitterをやめればいいような。ソーシャルネットワークは、今や宇野さんのいう「リトル・ピープル」を増殖させる機構にしかなっていない。

とはいえ、「問題はすでに、いかにして父になるか/ならないかには存在しない。自動的に発生する(小さな)「父」たち(リトル・ピープルたち)の相互関係にこそ、今、文学が立ち向かうべき問題は存在するのではなかろうか」という提言については、「父」という言葉を除けば賛同できる。

新自由主義の圧力はわかるし、小さな「父」が溢れかえっているというのもわかる。ただ、その父に、リトル・ピープルがとりついて別の醜悪な何かに変質しているように見える。


1Q84」についてはBOOK4以降が出ないことには後だしじゃんけんにしか見えないな。