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「まどか☆マギカ」の決断の行方

シナリオ

前ふり

魔法少女まどか☆マギカ」と「仮面ライダー龍騎」が似てるね、という話は早い段階からありましたよね。7話だったか、魔法少女はゾンビも同じ、という杏子の言葉は、上位システムによって使役される英雄を描く「龍騎」や「Fate」を即座に連想させるものでした。こういった《物語的ゾンビ》をの行方を描く同時代作品は何処を目指しているのだろう、という問いが私の中にあります。

あと、10話のほむらは、時かけリトバス、などなど、「最後に残った道しるべ」を求めるループものと同じといえますね。宇野さんの言う決断主義のひとつの典型だと感じているのだけど、「ゼロ年代の想像力」を読んでないので実は違うかもしれない。ただ、ゼロ年代以降のループものは、過去の輪廻転生ものと明らかに違う何かを我々に問いかけている。それは何なんだろうという問いが私の中にあります。

まじめに周辺作品を調べてる暇もないので、思いつくままに書いてみます。ただし、「龍騎」を見たことないし、「ひぐらし」もやってません。色々片手落ちですみません。

《物語的ゾンビ》の役割

上位システムによって使役される英雄って最近だけのものなのかね、と考えたとき頭に浮かんだ作品は、ジーン・ウルフの「デス博士の島その他の物語」、そしてJ.クロウリーの「エンジン・サマー」でした。

以下突然のネタばれになってしまいますので退避ゾーン。
……



「デス博士の島〜」では大人と子供の間で揺らぐ主人公の前に物語の登場人物たちが現れます。また「エンジン・サマー」の語り手である主人公は、未来人によって繰り返し再生される感情を持った記録データであることが作品のラストで示されます。「デス博士〜」の有名なラスト、「だけど、また本を最初から読み始めれば、みんな帰ってくるんだよ」は、彼らが本に使役される慰み者であるのと同時にセンチメンタルな退避場所となっているのを表しています。彼らもやはり物語によって駆動するゾンビなのです。

しかし明らかにデス博士やラッシュは、セイバーやアーチャーとは異なる。大きな違いは、過去の物語的ゾンビは慰みを与えるのに対して、同時代の物語的ゾンビは決断を促すという点にあると考えます。

二つの違いを考えるのに、下記レポートの内容は示唆に富むと考えます。
デス博士トークショーレポ - END_OF_SCAN
「デス博士」が

  • 外が描かれない、終わると世界がそこで終わってしまう、世界に動きがない。
  • 癒しの物語であり、読者の喜び、読書の力を書いている。
  • カソリック的、決定論的。

なのに対して、上記同時代の作品たちは、これらの価値観を疑うことをメッセージとして持っていると感じます。特にカソリック的という面は明らかに持っていない。

デス博士やラッシュは、ゾンビと呼ぶにはあまりに美しく軽やかで生に溢れる存在です。天使的と言っていいでしょう。一方で、「龍騎」「Fate」「まどか」はこういった楽天的あるいはエロス的な世界観を完全に否定しています。「龍騎」「Fate」のヒーローは同時に物語の奴隷であり、「まどか」の魔法少女は、災厄を振り撒く魔女になる運命から逃れられません。
特にいずれの作品も、ヒーローの在りようを批判的に描いている。批判の矛先は、我々が持つゾンビ性だと感じます。

http://sfhyoron.seesaa.net/article/182793169.htmlにも描かれるように、我々はもはや環境に管理されたゾンビという側面から逃れられない。あるいはアニメを脊髄反射的に楽しむ我々は、哲学的ゾンビに限りなく近づいているのかもしれない。
哲学的ゾンビ - Wikipedia

サラリーマンを社会の歯車と揶揄したのはン十年前。もはやそれにすら成り得ない我々にとって、英雄的行為を強いられるヒーローたちの喜劇や悲劇はカリカチュアになっています。

まどか☆マギカ」と携帯小説

「まどか」の批評性は、少女趣味とか、少女が特に強く持つ楽天性とか天使主義に向けられています。この辺の社会学的なお話は宮台さんの本とか読めばいい言葉が出てくるのかもしれないけど。援交ものとかね。「天使主義」については、NTT出版が出していたInterCommunicationの1998年夏号の「天使の流行は破壊主義の道を進む?」で書かれています。

人間は本当は天使のような存在なのだから、言葉などないほうが理想的なコミュニケーションに到達できるし、肉体を介さない直接的な交流こそが最高のコミュニケーションというのが天使主義で(以下略)

「まどか」では、こういった少女の願望を具現化するという魔法少女のお約束をぶち壊していきます。奇跡の代償に魂と肉体を切り離され、上位のシステムのために燃料として使役される。魔法少女=売りをする女の子、キュウべぇ=ホスト、てな記号ゲームは当然虚淵さんの頭にはあるでしょう。
つまり携帯小説は伝奇小説であって - END_OF_SCANを踏まえると、携帯小説の物語構造の延長線上に「まどか☆マギカ」は存在している。「ケータイ小説」を外に追いやりたい人たち - END_OF_SCANにも書いた通り、携帯小説は少女たちのフォークロアだったと私は考えています。彼女たちの日常をより確かなものにするための語り直し。「けいおん!」のような日常ものも「まどか」のようなダークファンタジーも、携帯小説の進化上にあり、身体性の喪失=ゾンビ化への抵抗、アクチュアリティの快復を目指しているいう点で同じだと言っていいでしょう。

魔法少女ものを脱中心化するという方法論によって、携帯小説的なモチーフをより大きな枠組みで物語にした、という点で「まどか☆マギカ」は面白いと感じています。

しかし、そのために周囲のキャラを色々不幸な目に合わせるというやり口には非難もあるかもしれない。その最たるもののひとつがほむらの背負った運命でしょう。

ループ、ダンス、祈り

ループものには、語り手自身がループを起こす原因になっているケースと、語り手のシャドウがループを起こす原因になっているケースの2通りがある、と考えます。
 語り手自身がループを起こす原因となっているケースでは、しばしば「胡蝶の夢」が引き合いに出されます。問いかけられるのは、終わらない日常への疑いであり、現実の再認識です。物語の終わりでユートピアであるループする世界は破綻をきたし、主人公は現実への帰還を決心します。興味深いのは、主人公が現実への帰還を決心し行動するきっかけとなるのが、主人公の想い人や半身が死にさらされるため、という点です。

「まどか」のほむらはもう一方のケースに相当します。語り手の運命を変えるため破滅を何度も繰り返す。そこではループは、願いを叶えるための受難となります。その行為はゲーム的であるのと同時に、同じステップを繰り返すダンスのようでもあります。彼ら・彼女らの犠牲は物語の神に舞を奉納しているようですらあります。しかしその犠牲を語り手は物語の最後まで知らされません。彼らの運命を知らされたとき、主人公はそれを否定しつつも何らかの決断を強いられます。彼らは自身もそう成りえた可能性の一つであり、その悲劇を回避することが自身に課せられた役目だと気づくのです。

2つのループもののケースを比べると、行動が逆転している点が興味深いです。前者のケースでは語り手が世界に働きかけループする世界を終わらせようとする。一方後者のケースでは、語り手のシャドウが運命を変えるため世界をループさせている。ループ世界は、前者においては熱死しない世界(エントロピーの保たれた世界でありカトリック的な決定論的な世界)であり、後者においては破局の繰り返しである。前者のループ世界は、現実への批判的視点がこめられているのは確かです。一方後者にはそれとは別の問題意識があると感じています。

決断の行方

なぜ、破局の繰り返しを提示しないといけないのか。そこまで掛け金を上げないと決断を描けなくなっているのかもしれません。虚淵さん固有の問題なのか、物語がすでにそこまでの犠牲を求めているようになっているのかを判断することはできない。ただ、昔の作品は今の作品より主人公が容易に決断を出来ていました。今や物語は主人公に決断を強いるようになっている。

まどか☆マギカ」ではまどかが魔法少女になることを決断しないうちに多くの犠牲が生まれている。そして、ほむらはまどがか決断しないことを望んでいる。魔法少女であることを描くのではなく、魔法少女になることを決断できるかを描こうとしています。もはや決断することがファンタジーなのでしょう。「まどか☆マギカ」でのまどかの決断は、大それたものではないと考えています。しかし、それすらも大きな代償なしには描けない、というのが我々の現実なのかもしれません。