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エンジン・サマー

なんとも罪深い作品。
確かにラストは切ない。しかしその哀切は、主人公を物語の生贄にしているからだと言わざるを得ない。対象を物語にする(押し込める)という行為は、対象から生々しさを剥ぎ取る作業を伴う。その過程での喪失、不可逆性が読み手を引き裂く。切なさと物語構造の暴力性が表裏一体なのはまあ逃れられないことではある。まして、SFではノスタルジーという形でその手の語りが確立されている。夏とか少年時代などのガジェットとともに。そのことに批評的だったからこその「エンジン・サマー」なのはわかる。でもなぁ、と。
例えば、主人公の一生って、ほぼ十牛図なんですよね。主人公は悟りのためのツールでしかなく、実際物語の背後にある設定ではそうなっている。いや、作中の主人公の成長が愛おしいものなのも認めます。だけど足りない。今やこの手の語り方は進化している。同系統のエロゲ(Kanonとか)だと、物語構造と語り手の造形との一貫性とか、語り手の造形自体の魅力付けとかをちゃんとやっている。エンジン・サマーは、物語構造と語り手の造形との一貫性はダメ(変なおっさんが来て(ネタばれ略)というとってつけたような設定)だし、主人公の造形については語るべきことすら見つけられない。そのことは読後感として救われなさが先に立ってしまうことと相関が高い。一言で言うと不毛。
「萌え」って語る対象に自覚的だからこそ生まれた概念なんですよね。語り手(読み手)が語る対象と一体化している限りは萌えという感情は生まれない。ミニマルなノスタルジー。物語ることのアンビバレンツを解消するツールとして萌えがあることはもっと評価するべきだと思うのです。「エンジン・サマー」がこの手の作品の嚆矢なのは明らかだし、マスターピースと呼ばれるに足る完成度を持つのも確かだ。けど、どうしても限界があるなあと。
結論として、ワンスアデイには萌えが足りない、ということです。