フラットとは過酷な日々

ネットの炎上は人類進化の必然で、健やかなる新時代を拓く鍵かもしれない - 分裂勘違い君劇場

まー、みんな同じようなことを感じているのだろう。自分も半年前に書いたっけ(影としてのCGM - END_OF_SCAN)。

ただ、自分でこのエントリー書いたあと思ったのは、だからどうした、なのでした。その世界には「人間」がいないのですよ。一言で言えば「不毛」。

あらゆるauthorityが解体された世界で、いかなるネガコメも達観するほどに解脱した人たちが群れる世界で、人は何に喜びを感じ、何を報酬として生きていくんでしょうね。
そんな世界で、自らが存在していることを確かに感じることができるのだろうか。

思考の偏りから相転移が起き、ケミストリーが生まれるには、ある種の閉鎖性が(今までの人類の歴史では)必要だったのだけど、このような熱死した世界でそれが起きうるだろうか。起きないと思うのです。この10年あたりのネットの上での文化の膨張性をみているとそう感じる。仮託すべき文化もなく、包摂されるべき社会も希薄になっていく。

世界がフラットになる、と言うとき、フラットとは不毛とか熱死とか去勢とかと同義だと感じています。不毛には不毛の意義もある。ただ、頼る縁がない。フラットとは「過酷な日々」なのでしょう。
問題は、そのような世界で、「悪意」に対抗できるのか、ということでしょう。「悪意」とは、システムに内包された個をすり潰す力、といったところでしょうか。村上春樹の例の「卵と壁」の喩えにおける壁です。
ネットによって拡張された個の力はシステムを超越するという楽天的な未来像が信じられているけど、実際にはそうはならない。

>この社会にエリートはいらない
とありますが、アーキテクチャを動かす側に今の「エリート」はいますよね。かつては「ノブリスオブリージュ」といった概念とともに、by name的に活動していたものが、今ではシステムとその理念の影で世界を動かしている。Googlizm。で、悪意はアーキテクチャと親和性が高い。

この半年の間あまりブログを書けなかったのは、今のネットの多様性の成れの果てに未来を見出せなかったってのがあります。それこそ分裂君のエントリーには何の未来もない。容易にアーキテクチャに取り込まれ、悪意にすり潰される、「過酷な日々」しか見出せない。しかし、そのようにしか、生きていけない。
とはいえ、「1Q84」のようにエロゲ的幻視を今更持ち出されても、我々には記号にしか見えない。

ところで、分裂君のエントリーに次のアジテーションがある。

そこには、人々の頭上を覆う抑圧的な権力装置はない。頭上にはただ、青空が広がっているだけだ。

これを読んで、ヴェイユの言葉にある「真空」を思い出した。重力(偉さへの執着)を逃れて恩寵を待望する生き方はなんとも立派なのだけど、どうにも痛々しい。もっと厳しく言えば、何も生まない。