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「蹉跌」の消失

センセーショナルと評判のミュージカル「春のめざめ」を見に行きました。ストーリーはこちら。青春の蹉跌を描いた作品です。性の抑圧とか。古い。そもそも原作は19世紀末にドイツで書かれた戯曲です。けれど普遍的だとも言える。やっていることはケータイ小説と変わらない。

観劇しながら、なぜ今この作品がミュージカルになるのだろう、なんてことを考えていました。連想したのは、ケリー・リンクとか現代アメリカのの幻想小説です。ナイーブさや肥大化した自己にフィクション性を求めるほどに、アメリカの規範が弱体化しているのだろう、ということは前から感じていたのでした。「スパイダーマン3」などハリウッド映画ではヒーロー像の語り直しが流行だし。あるいはイノセンスについての語り直し。日本では少女マンガがあるから、いまさら感が拭えない。大島弓子とか。

ただ、若者のナイーブさを描いた作品に対し、少なくとも私の中では受け止め方が変化していることに気づきました。20代の頃まではこの手の作品に触れたとき、いたたまれなさ、身につまされる感を感じたものです。作中、主人公が大事なものを失い行き場を無くしたとき、同じように世界が小さくなっていく感じ、閉塞感を持つことが多かったのでした。「青春の蹉跌」を描いた作品はたいてい、終わりに向かうにつれ閉塞感に覆われていくものでした。

「蹉跌」という言葉を実感を持って使うことがなくなっているように思います。使ったとしても形式的、記号的。自我の中の痛い部分が失われることに対し、恥の感覚を共有することは少なくなっている。そうなった理由は色々あげられる。社会基盤の弱体化だったり、ポストモダンとか文化的なパラダイムの変化だったり、痛みがメディアを介して商品化されまくった結果だったり。「動物化」しているのも、恥の感覚がなくなったからですしね。少なくとも、若気の至りとか恥の感覚は、文学装置として機能しなくなっている。「恋空」で主人公が平気な顔でただいまと帰ってこれるぐらいには。文学として「蹉跌」が使われなくなっただけでなく、(少なくとも自分の中で)受け手の側でもその概念がほとんど無効化している、というのが今回の発見でした。かつてはあの閉塞感はうざかったのだけど、失った今は懐かしいような寂しいような。

今は、世界の側に責任を押し付けているように感じます。「過酷な日々」だったり、「卵」に対する「壁」だったり、ストレスを外在化している。