ディファレンス・エンジン

ギブスンとスターリングが組んだ小説って想像できなかったので敬遠していたのでした。面白い。1、2章は(作品では"反復"という単位を使っている)、登場人物紹介が主なのでもたつく感があるけど、3、4章はダレずに話がどんどん進んでいく。解説で巽さんが黒丸さんの「ギブスンは結局人しか書けない」という言葉を引用しているけど、こんだけ魅力的に人を動かしてくれれば幸せですよ。むしろギブスン自身の作品よりも引き込まれる。社会背景とガジェットがともに素敵だからだろう。
大場つぐみ小畑健の「バクマン」を読んでいるときの感覚に似ている。大場がギブスンで、小畑がスターリング。こんなこと書くとサイバーパンク原理主義者に刺されそうですが。ストーリーとキャラの軽やかさと背景や描写の精緻さのずれが快感になる。すみません、バクマン大好きなんです。
作品の着地仕方、あるいはサイバーパンクという位置づけについて気になっていることがある。差分機関が問題を解く方法と、自己言及あるいはサイバーパンクのあり方とは、絶対的に異なるということ。サイバーパンクって投げっぱなしなんですよね。差異は示すがその意味するところを読者に委ねる。差異の大きさを客観的に計測しないし、ある地点に収束させることもない。反復はするけど目的関数を設定しない。代わって差異は主観で測られる。"私"という視点で。
あと、今や"私"の意味は拡散していて、"私たち"と等価で"全"と地続きになっている。そんな中で"私"の概念を到達点としてコンピュータが進化しても今更感が。
メタとか記号では広げられる世界に限界があるわけで。ディファレンス・エンジンは、試みも到達点もほとんどサイバーパンクの臨界ぎりぎりで素晴らしいのだけど、20世紀のフレームワークを超えてないなぁとも思う。90年の作品にそんな突っ込みするのもどうかと我ながら思うけど。サイバーパンクのかっこよさ自体に閉塞感漂っているのだから、今までのパラダイムに着地するのではなく、差分機関をわざわざ持ってきたなりの到達点を見せて欲しかったな。
まあでも、サイバーパンクの記念碑的名作という看板には偽りなかったです。