くらやみの速さはどれくらい

文庫化を機に読みました。面白くて、600ページを1日で読みきってしまった。まず文体、そして描写がすばらしい。本の裏にある解説に「自閉症者ルゥのこまやかな感性で語られる〜」とあるけど、"こまやか"なんて簡単な言葉で済ませられないぐらい深い。とにかくぐいぐい読まされる。ルゥの意識は、外界と同期できない。関係ないところで思考がぐるぐる回ったり、会話についていけなかったり。そして彼をとらえる質問、「暗闇に速度はあるのか」が唐突に頭をめぐる。その思考の不連続さがとても楽しい。というか共感する。とても。



この小説は、テーマと文体を奇跡的なほど高いレベルで纏め上げたアクロバチックな作品だと思う。同業者らの投票で選ばれるネビュラ賞を受賞したのも納得。自閉症の人は異なる時間で生きている。木村敏の著作で読んだだけなので詳しく語れるわけではないけど。実際、この小説では出だしから、ルゥの認識と外界の速度が異なることが示される。すさまじいのは、彼の意識の流れが読者の作品世界の認識にぴたりと合っていること。少なくとも私にとって、一般的な一人称の小説は、語り手の独白を横で聞いているような感じだ。だから読み手が作品の中で起こっているのを理解するのにはどうしても遅れが発生する。延々長い独白をやった後、"この間0.1秒"なんて注釈が入るネタがよくあるけど、同様の突っ込みや不安を感じたりする。主人公がこれを考えている間、世界は止まっているのだろうか、なんてね。この小説では、ルゥの視点での語りによって、時間の遅れを含めた描写が担保されることになる。一般的な一人称の文体でも許されないような細やかな外界の描写も、この小説では異化されて読まれることになる。

この小説で特に印象深いのは、18章のルゥが決心をするきっかけとなった教会のシーンと、19章のリンダと星の話をするシーンだ。これらではいずれも、ルゥが外界と同期している。あるいは、光の速さと暗闇の速さが同じになっている。この2つの体験を潜り抜けたルゥが手術を受ける決心をするのはとてもわかる。同じ時間を生きるには、速度を合わせるしかないのだ。そういえば、同じことを「秒速5センチメートル」の遠い音楽 - END_OF_SCANでも書いたっけ。逆算すると、ドンのエピソードもマージョリのエピソードも研究所のエピソードも必要なのがわかる。ルゥはそのままでは、ドンがなぜ悪いのか理解できないし、クレンショウと折り合いをつけられないし、マージョリと同じ時間を生きることはできない。永遠に。
ルゥとともに同じ体験をしてきた読み手(少なくとも私)は、旧ルゥの喪失にやるせなさを感じるのと同時に、彼の決心に喜びを感じる(その点でも「くらやみ」は「アルジャーノン」とは大きく異なる)。だからこそ、エピローグで統合されたルゥが光を追う姿にカタルシスを感じる。そういえばラスト1文は冒頭と対比している。

というわけで、エンターテイメントしながら文学的にも深い傑作だと思います。