影の上に立つ

影としてのCGM - END_OF_SCANの続き。どこから来たのか - END_OF_SCANも関係している。
CGMに拘泥するほど、影に囚われていくように感じる。影は、光の当たる方向にあわせて形を変えることが出来る。しかし、影は顔も名前もない。光の当たらない場所では形を失ってしまう。「特性のない男」みたいだ。
ではどうすればいいのだろう。ゲドみたいに影と戦っても、影は他者と互いに溶けあっているので(人類補完計画みたいに)、それを打ち破っても己を取り戻すことはできない。一方で、上の世代が連呼するように現実に帰還しても救われない。リアルでの包摂はたいていの場合、カースト制度への従属を強制される。そういえば、アキバ事件でそのへんを押さえた言説はなかったよな。あずまんが、自分のセーブデータを大切にするしかない、と言っていたっけ。とはいえ、過去の重さを秤にかけるだけでは先にすすめない。簡単にリセットしてはいけないというのは、自分が嫌いな人には重荷でしかない言葉だ。
「どこから来たのか」と「どこへ行くのか」の両方が自分を保つのに必要なのだが、そのためには自分を省みるというプロセスを要する。しかし、ネットにせよ携帯にせよICTのエコシステム、つまり互酬系やアテンションエコノミーは内省の機会を奪う方向に働いているように見える。ICTは過去と現在をそれぞれ別のエコシステムで扱う。適当に生きていると容易にからめとられてしまう。
影の上に立つか、影に溺れるか。後者は楽なんだろうけど、生理的嫌悪感を感じる。自分をGoogle化するとかバカじゃね?とか思う。ならば、肥大化する影に対してどうやって立つか。漠然とした不安が少しずつ大きくなっている。トントカトン、という音が聞こえそう。自分にとって影と直交する軸って何だろう、ということを考えている。