影としてのCGM

書かれている内容だけでなく、そこから引き出される読み手の情動もまた本の一部である――。一年前だったか、松岡正剛さんが千夜一夜関連本のイベントで話していたのはそんな内容だった。人はときに本に狂わされることもある。この本に書かれているのは私のこと? と妄想に駆られたり。正剛さんはその手のエピソードを話した後に、もっと身近な例も語ってくれた。昔の貸本屋の本には過去に借りた人のメモが書き込まれていたり線が引かれていた、それも含めて楽しむのが貸本屋の本だった、と。
この話を聞いたとき思ったのは、それってニコニコやん、ということだった。立派な感想や批評よりも共感に重きを置く。過去には内輪でしか許されなかった表現も、一部のメディア(CGM)では見知らぬ人同士が共有するようになった。
一方で、それは私的な交流の延長であり、Webではそれ以上のことができるはずだ、という空気がこれまであった。少なくとも2007年末までは。一部の人は、民主的・合議的に知を形成するフロンティアとしてブロゴスフィアをとらえていた。
2008年はフロンティアとしての"Web2.0"が終わりを告げた年だった。梅田さんの"暴言"はまさに彼の敗北宣言だった。チープ革命によって万民が公的に意志決定に参加する、という"総表現時代"の到来は幻想だった。少なくとも今の日本では。
むしろ、今のgdgdなWebこそが始まりなのだと感じている。はてブは確かにネガティブなタグ、ヘイトスピーチの温床になっている。でも、あらゆる種類のWebページへの二次的コメントを集約する場所になっている。それが面白い。少なくともfolksonomy(笑)の実施例としてよりずっと意義がある。
CGMは、あらゆるコンテンツにおいて、そこから引き起こされる受け手の情動を伝える。CGMは対象となるコンテンツを選ばない。Webページに対してコメントを残すことも、芸術作品や食べ物に素の感想を洩らすことも、場所に伝言を残すことも、等価である。CGMが、地理的な位置関係や、コンテンツの相関関係や、ソーシャルネットを串刺しにする。人はCGMを介し、異なる次元のマップを行き来する。あるいは複数のマップに同時に存在する。
CGMが扱うのは、コンテンツの「影」でいい。そうあるべきだ。アカデミックな評論や立派な意見として像を結んでいる必要はない。一人一人の淡い意志の光がコンテンツに注がれ、出来た朧気な影が重なりあり、本来のコンテンツ以上のものを伝える。それが何を意味しているかは受け手が感じればいい。ステンドグラスのように。CGMは、あらゆるコンテンツに対して、マクルーハンの透過光を映す。
これから問われるのは、透過光をどう扱うかだ。教会のステンドガラスになるのか、覗き窓になるのか。光の向きを揃え、教会を暗くすることで、射影は崇高さを宿す。あるいは、影の境界には"もうりょう"が住まうかもしれない。(正剛さんが別のイベントで触れたように)かつてイギリスではコーヒーハウスの集会から政治や文学が生まれた。必要なのは、(SLのように)街の再現でも、(RSSのように)影の住民を陽の下にさらすことでもない。