どこから来たのか

「どこから来たのか」「どこへ行くのか」という根源的な問いに対し、後者はよく問われるが前者はおざなりになる。特に近年その傾向が増しているのかも。主人公がやんごとなき人の末裔であることが途中でとってつけたように語られたり、ヒロインの行動原理がすべてトラウマに帰結したり。
物語にかかわらずリアルででも見られる。思いが大事ってな決断主義厨とか、マッチョな人とか。結局それでは相手に意思が伝わらない。コミュニケーションの機会は増えるかもしれないけど、コミュニケーションの能力は低いままだ。過去を亡霊として押し込めるという文法が、20世紀の呪縛として残っている。結果、総じて密度・質量がない。

日本語が亡びようが亡びまいがどうでもいいのだけど、存在意義みたいなところから溢れ出る文体というものは確かに減っている、あるいはあっても軽くなっている。自分がスれてしまったからかな。一文一文を貪るように読む感覚が減っている。いまそこにある文章に煌きを感じない。アレゲな文体を使うってのは確かに一つの手法なんだけど、なんかなぁ、手段が目的化しているというか。