「秋葉原通り魔事件──絶望する社会に希望はあるか」

むしゃくしゃして行った。とりあえずログを貼っておきます。特に後半は落ちまくりで。
2ちゃんねるの東スレに貼られたログも参考にしてください。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1217595727/415
また、「筆不精者の雑彙」さんのレポもどうぞ。http://bokukoui.exblog.jp/8754598


主催?
司会をおねがいした理由
ロフトプラスワンの歴史として
サカキバラ事件のとき、ロフトがまだ新宿になかったころ
ライター夜間学校のイベントでとりあげた。

藤井
そのときの内容
宮台、中森明夫さんと自分とで本を書いた
「世紀末のリアル」
11年前。
なつかしいというよりは終わっていないという感覚
読み返すと、事件も違うし変わっているところもあるけど
その辺の話も含めて。

最初に。
秋葉原の事件。
前の茨城の事件。
八王子。
なくなられた方がいる。黙祷を。

パネラー入場
切通、東、宮台

宮台
なつかしいね

藤井
ちゃんとやるのは久しぶり
10年ぶり

宮台さんはビデオニュースを神保さんとやっていて
そこで東さんがゲストで、その後雨宮さんもゲストで。
すでに一通りの話はみんな見ている
洋泉社からムック本が出ている
宮台、東、雨宮が書いている

突っ込んだところの話を。

はじめに。
サカキバラから言われていたことだけど。
このような事件は10年に1回起こるもの。そのときの評論家がかぶせて言っているにすぎないところもある。
最近は言われるようになってきたけど。
そういう見方がひとつにはある。
格差社会が引き起こした問題、というだけではない。

宮台:
大きい事件
70年、連合赤軍
80年、足立の女子高生コンクリ、M君事件
90年、サカキバラ
それから10年。
周期の話をしてもしかたない。

10年前との客層の違い
もっとやばいやつがいっぱいいてこわかった。リストカッター
それが楽しかった。
今来ている人は文化的にカルティベートされている
昔のロフトに加藤は包摂できたけど。今はできないのでは。
今の客には文化的な匂いがただよっている。
それは予想していたこと。
女子高生をひっかけて、調教して、とかいう話を昨日したらドン引きされた。
昔はドン引きされなかった。
今日は朝日カルチャーセンターに行くのとあまり違わない。
困ったなという感じで来ている
昔の方が病的な人が多かった。当事者になってしまう。
今だとちょっと違う。
援助交際についてしゃべったことも昔はそういう人が聴衆だった。

包摂というキーワードで考えている
昔はトラッシュ系、ゴミ箱系で、そこにでは包摂できたものがいた
今はブログ論壇になるのだろうか


ブログ論壇論をしても仕方がない
ここにいる客のうち1/5は、知っている人。あるいははてなidがわかっていたり。
そういうせまさはある。ネットによって狭さが拡張しているのはある
その前に問題提起に答えると。

今回、論壇が当たり前のことを言っている、それに反論することそのものが
知的になっている
メタ言論空間が作られたからではなく
2000年から、議論が経済学化、社会学化している
学生レベルからそういうことを言っている

思想地図関係で、上野千鶴子に会って、
加藤容疑者にみんなが強化しているといったら
その証拠(evidence)は、と反論された。
そんなこと言われたら、何も言えなくなる。

いつも同じことを言う心理学者もいる。
でもそれにコメントすること自体に萎縮しても。
包摂の力がなくなっていく一方、議論が萎縮している
加藤の家庭環境などを細かく調査して、ある一面を見て終わり
でもそれで証拠は、というなるとどうしようもない。

切通
東さんが事件直後朝日新聞で、これはテロだ、と言ったのには
なるほどと思った。
あの時点で言うのはえらい
加藤は自分を負け犬と言ったりする、でも本気でいっているのではなく韜晦として
言っている。
そういうのを真に受けている人がいる
周りに何か言う人ははなかったのか、と東さんが言った
しかし実際、彼の周りで声をかけていた人はいた。
でも彼が、否定的に思ってたというのは事実
どんな慰めの言葉も反対的に聞いてしまっていた。それは事実。
細かいこと言ったら、格差の話とか自己責任とかいえるけど
あの時点ではわからない
そういうのを社会時評的に言うのは難しくなっている

宮台
上野千鶴子の弁護をする
彼女は、フェミニズム論壇で現象を作った
彼の主観性にかかわる言説空間をひろげ、既成化するのを憂慮している
証拠はといったのは、現象に加担していることに自覚はあるのか、ということを
言いたかったのではないか


池田信夫が、東みたいなやつがいるから加藤が聖人化するのだ、なんてことを言う
しかし、自分が何か言う前からネットで彼を聖人化する声はあった。
自分は見えている情報を提供しているだけ
彼には見えてないからそう感じてしまう

加藤が書いたと言われる、オーソライズされていないけどWikiであがっている
書き込みを見ると、彼の主観というよりも非モテの類型にすぎない
決定的と思うのは、事件の3,4日前、
ひぐらしと、グランセットオート(?)(車でつっこんで人を殺すゲーム?)を買わないとな、
と書いている。
主観性が再帰的になっている
彼がまとおうとしているイメージがすでにネットに氾濫している

宮台
加藤を支えている共同主観、としてゲームなどがあるのは確か
その言語ゲームに乗っていない人から見ると、何を妄想しているのだで終わる
証拠は、というときは、既存のゲームを正規化(?)するということになる

でも妄想の結果事件が起きている
それは現実

加藤に共感したとき
そこに証拠がなくても、同じように感じている。
反応している人は、各々の所得など境遇が違ってても
彼が示したステロタイプに反応していしまう
マスコミを見ると、彼らにはそもそも見えていない。
そのことが分析されていない

赤木智弘の言葉と加藤の言葉とは一気に連結される
その陥穽はなんですか、という話をする必要がある。
証拠もない資料もない、妄想はというと

切通
感覚的に見覚えのあるものになっている

藤井
ネットで出ている犯行予告、そこに集約している


模倣犯はありがち
それは取り締まればいいだけ

宮台
サイゾー採録されたビデオニュースでも言ったのだけど
この事件については、あまり語る気がおこらない
結局、既存の言語ゲームに参加するかしないか、ということにすぎないから。

いままで言ってきたからというのではない

ずっとフィールドワークしてきた
若いのと接して、NHKのギャル関係のに原案だしたり
その周辺もみてきて
その中で、東さんが言ったように
言語ゲームの意味論形式については熟知している
何を語ってもその中で語ったことになる。

ならそのゲームの中の人、近い人がしゃべるべきだと思う
そうなってきているブログでも。
でもマスメディアだとギャップがある。

それは気になる。
だから一部ブリッジしようかなとは思っている。
でも若い人がやっている言語ゲームに参加するのは微妙、居心地悪い。
飲み会で説教しているのを反復するだけになる。
自分のゼミの飲み会。ナンパしてきているやつがある。
非モテな人もいる。
そういう人たちの言語ゲーム
昨日のイベントの目的の一つは、違う言語ゲームにシフトするには
何をするべきか。道筋を提示することだった
これは社会学者の領分ではない
社会学者は分析する人で説教する人ではない。なんかきつい。
加藤事件の言語ゲームの広範性、普遍性はどういうことかは議論できる


自分にしてはめずらしく朝日に書いた。
そういうことをしたのは、自分に近い事件だと思ったから。
その後知ったのは、自分の世代の知識人は、アキバに対して冷淡ということ
北田とか無関心、
大塚英志も関心ない。
大澤も。
むしろこのわかりやすさについて東さんと語りたいと言っている
知識人にとっては、わかり易すぎて語るまでもない、と。
しかし本当にそうか?と思う

ロスジェネ論壇では派遣問題ここにきた!と
でもそれもそう?ということに
彼らの戦略というのはわかる。でもやっぱり違いがあるように思う

2ちゃんねるで自分の(朝日)発言のスレを追った。
そのときあったのは、派遣を真剣に考えるというより、
もっとぼんやりした共感

切通
自分がその中に包摂されていない、けど共感している
やってくれた、というような感じ。
サカキバラの事件のとき、
「透明な存在」など彼の言葉は抽象的で
そこにみんなが読み込んで言った。
文学的に分析していった。

今回の加藤の事件が、そうはなっていないというのはそのとおり
でもあの透明な存在、というのに意味を与えるような
リアリティというものがない。
文学的に読み込む共通のステージというのが昔はあった

藤井
95年のオウムの事件の時の朝生で、
正直やられたという感じがした、ということを言った
世代的にAKIRAとかコインロッカーベイビーズとか
そういうのからの延長で。
そのとき他のパネラーから引かれた。
今回ある種の共感というのはほとんどなかった

宮台
鶴見ワタル
ハルマゲドンのことをひたすら語っていた
では、いつまで待っても来ないハルマゲドンにどうするか、という問題があった。
事前に共感は持っていた。そういう言説空間があったのは事実
ハルマゲドンはこなかったらどうするか、という問題に対して
オウムはハルマゲドンを起こした。
すごいと思った
今回は違う。そういうのはない。


90年代から2000年の間に
世代間の問題がメディアと重なった
若い世代が論壇から撤退してきた
自分はその中でがんばっているほう。例外的
みんな2ちゃんねるにいってしまった
一方は見えてなくて、もう一方は見ているというのは当たり前
問題はブリッジをどうするか。
ネットには、視聴率とは部数では測れない影響力というのがある
そこにばらまかれている予兆をみんながぼんやりと感じている
はっきり見えているのではい。カンをあてるようなところはある。

切通
完全自殺マニュアルで乗っかって自殺するようになって
見えるからまずいということになって、今度は報道しなくなった。
同じように、マスコミからは予兆は見えなくなっている。


そこに相当する規制も行われている
ケータイを中高生に持たせないようにとか
言論がそれについていってない。
それを正当化するために
メタ言説だけをしている

宮台
そろそろ実質的な話をしたい
サブカルチャー解体新書」を書くために追っててわかったこと
性が宗教に移行していった
承認という目標を性に仮託するというのが昔は普通だった。
ずっと伝統的にあった
80年代を通じて
サブカルチャーではロリコンに移行した
イノセントな少女に承認されたい、という欲求、すなわちロリコン
無垢であるがゆえに自分を承認してくれる
それになじめない人、風俗で商売している人などが、
新興宗教に入っていくというのが目だった。

90年代にブルセラが流行った。
これも証拠はないことだけど
80年に比べ、女の子が性的なものに出て行って、期待はずれに出会ったのではないか
セックスは期待はずれ、セックスするなら金に換えた方がいい、と。
援助交際がメディア的にとりあげられたせいで
それまで援助交際しなかった人もするようになり、
する人のイメージが勝ち組から、手軽なツールに移行していった
そのゆり戻しとして出てきたのがガングロ。
ガングロは、性的なものを自ら遮断している。
かつて、コギャルをつかまえてインタビューしていたとき、通りすがりのしろギャルに対して、
なにあの子とすごくにらむというのがあった。
それに引きずられた
性愛的な価値について、たいしたことがないということに。
テラベッピンでの連載をしていたころ、白夜書房でそれまでエロ雑誌の編集やっていた人が
アキバ系に移ることが多かった。なぜかと聞くと、女面白くないんだもん、と。
その頃、ナンパ系が痛くみえるようになった。
急速に。
一方でおたくが引け目を感じなくなって。
おたくの学生に、リアルに行かないの?と聞くと
生身がゲームのように振舞えばいつでも生身にいける、と言っていた。
生理的なものに期待ができないという感覚がひろがっていった。

加藤的なものでいうと
モテか非モテかの二元論に陥っている。
だとすると、どこでそういう誤解がでたのだろう、という疑問が出てくる
性愛にコミットしていた彼らの失望感と全く逆の幻想が存在するのか。

藤井
それは彼個人の問題では?

切通
オタクになれば、満たされるものがある、と同じようなことをみんな言っている。
それが既成言説になっている
加藤がそれを真に受けてアクセスしてみたら、
そうじゃなかった、ということでは
自分の不全感がを解消するものがなかった、ということでは
その感覚は、すごいよくわかる

藤井
ひぐらしを買わなきゃ、という話でうわぁと思ったのは
彼が殺すという像を作りあげるため逆算的に行動していること
彼が加藤像を作っていっている

切通
それは、ドラマの中でも同じことをやっている
オタクとしても、同じように自分を作り上げるものがあると信じたのかも


彼はそんなにオタクではない

切通し
おたくという既成言説にアクセスしようとしたのでは


自分の動ポモはそのようなことを書いていて、でも証拠をあげるほど
突き詰めて書いていない。
サブカルチャー解体神話みたいな仕事を誰かがやるべき。それはともかく。
証拠はどうでもいい
モテ非モテというのは、男性共同体での承認を求めている
周りの男から強いと思われるためのモテ
そういう言説は根っこにある

自分の読者に結構彼女がいる。びっくり。
どうみても自分の読者層は非モテだろう。
そういう読者ばかる増えるのも困る
ファミリーな僕を演じてみた。子供の写真を貼ったり
でも非モテの読者はぜんぜんかわらない
関係ない
非モテ脱構築されないといけない?
現実のセックス・家庭がある、というのは関係なく
男性共同体の中で、モテか非モテかというラベルが必要とされている

宮台
自分の学生にナンパばかりしているやつらもいるのだけど、
彼らにやっている女のレベルが低いというと、みんなシーンとしてしまう。
やっぱりそうか、と。


どういう方向に行くのか全然わからない

宮台
やる相手がいるというのが、昔ほど意味をもたなくなったのは間違いない
今の悩みは「愛」が得られない

切通
彼の言葉に、愛されたいのではなく愛したい、というのがあった
すごく、よく、わかる(強調)


周りの男から承認を得たいという人と
真実の愛をほしいという人と2種類いる

ゼロ年代の想像力」の宇野氏は前者。
まわりの男コミュニティから承認をえるためにやっている
非モテの集団も同じ

一方後者は、ハルマゲドン幻想に近い
運命の出会い、全的承認を求めている。
こいつらはやばい
コミュニケーション能力をあげれば脱出できる、という人がいる
けどそれは違う
非モテは、彼女が現実にいるかどうかとはちがって
ある種の不全感の問題

藤井
東の(朝日新聞?)コメントで、テロを起こす回路として
彼にはアキバにつっこむというものしかなかった、それがよくない、というのがあった
それになると、本当に非モテでいいのか(?)


非モテという言葉に呼ばれている

切通
でも彼は、友達がいてアキバに連れて行って、ということをやっていた

藤井
彼の友人に週刊朝日がインタビューしているが、
自分の非モテさを自虐的なギャグにしていた

宮台
(これはオフレコなんだけど)
悩みを相談する人が一人もいないかどうか、という調査を大学でしたことがある
1−2割、男でいる。女性はほとんどいない。
メイド喫茶でオムライスをおごってやる相手、というのが友達なのか、と
カテゴリーが違ってきている。
モテ、非モテという背後にあるのはそういう友達関係の空虚さ不全感

年の差カップル、突然ある時期から可能になった
婚約している相手が自分の嫁さんにいた。
不全感が大きく、いつも同じことを繰り返していた、と。


つまり、略奪婚だった?w

宮台
そうですねw

切通
加藤にも彼女がいた。で、元彼女にインタビューした記事があった。
自分の話ばかりを彼にしていた、彼の話をあとできいてあげればよかった、と言っていた
こういうのは増えている。


宮台
10年前にACブームがあった。
承認されることばかりを求めていて、承認することへのコミットがない

切通
年の差カップルはそのへんができるから?


いよいよわけわからなくなってきた

宮台
実際わかりにくい話
心理学者にとってあまりにわかりやすい
いい子を演じる、抑圧型パーソナリティ
ガスぬきできてない者が爆発する
何が抑うつする感情を貯めるベースになっているのかを考えないといけない
証拠とか言っているとそれがわかりにくくなる
不全感おおきい、というのがある
自分たちの世代では、ナンパ成功したら、ガスぬきできた
セックスが祭になった


抑圧からまじめな話
生きづらさを経済的に世間が作っている
ラテン系に生きればいいというのもある。どっちがいい?

宮台
ラテン系。
そこまでいかないにしても。イタリアのパーティー、沖縄の泡盛パーティなど。


雨宮さんを代弁すると、そういうこと自体が精神論。
そこに対して抑圧的なパーソナリティをつくるもとになっている

宮台
格差は不可避、どうするか、というのはサッチャー政権で議論されている
新自由主義という立場、財政の問題でいうと新しい社民主義というもの
グローバル化は不可避、その結果人が直撃して苦しむのはだめ、どうすればいいか
どう救うか、というのに対する解として社会的包摂。
沖縄の社会など、真剣に結婚生活していない、社会生活していない、という言い方もできる
でもいい社会といういうことができる
経済的にはネオリベ化、グローバル化していることは事実
それと個人が不幸になることんの間には飛躍がある。
それは昔から話がある


経済的な再配分でうまくいくというのは幻想
それができないというのがすでに突きつけられている

ロスジェネの生きづらさ議論
それがなぜ力を持っているのか
段階ジュニア、
社会や政治から切り離されることで、議論できない
という不能感がある。
心理的問題は、社会、成人の問題だよ、という直接的
ある意味で希望ではある。
ブログ論壇の閉鎖性はよくわかる。
でもそこに行き着くしかなかった。
そうやって世の中を切り開くか
ロスジェネが希望になっている
そこで

切通
2つをつなげて話すことに無理があるということ
生活費をかけずに過ごす方法、というのが流行った
内容は、金がなくてもお互い貸し借りすることで生きていく
じゃあ、それで生きていけるのなら、給料を削ってもいいということでもない

10年前にはサカキバラの心の闇、という話だけだったけど
今だと社会の問題として

宮台
新自由主義でも、両義性はもともと孕んでいる
グローバル化格差社会が広がる
個人が直撃。そのために社会の包摂。
それは、格差化・流動化を放置することに
そのままで人を放置する。

切通
ヘロイン化

宮台
だから民主性が重要だという話になる。
たえず異議申し立てするしかない。そうしないともたない
外部からの衝撃を吸収するアブソーバーがアヘンかもしれない
それを議論する場として、国家、議会、アリーナが必要という話になる

藤井
サカキバラで宮台さんがいったのは
学校の問題、いじめの問題となったとき
小中学校でいじめをなくすのが簡単という話をした
クラスを廃止して授業ごとに選択性にする
流動性を持たせることで、ある閉鎖されたコミュニティでの
キャラづけを無効化する
それと同じようなことをイギリスでやった?

宮台
日雇い派遣を最近イギリスでやめた
移民一世なら日雇いがなりたっていた。2世3世ということになると冗談じゃないと。
日本では労働力のバッファとして日雇いを使えない。
だから何かあると当然すぐに問題になる
これまで表面化しなかったのは、経済は回復するのではないか、という希望があった。

イギリスでは、社会の中で問題を解決することがいいことという共通了解があった
それを利用していた
社会のメカニズムをつかって、てなづける。


先進国の格差を解決することにはどんな問題があるのか
第三世界、途上国にとっては意味は?


(これも雨宮さんの代弁ということだけど)
それは、犠牲の累進性
それは搾取側のロジックでしかない
みんなわかっている、でどうよ、という話になる。

宮台
政治的には彼女を応援したいというのはある
マル激でも言ったけど
生存の最低所得を保証するシステム、をやるしかない
あと負け組格差は放置して、社会的包摂のシステムをはりめぐらせる
という対策しかない。

切通
勝ち組、負け組、という言葉自体が包摂しすぎた
それにとらわれて人間の価値自体が決まってしまっている


もう少し小さい原因がある。
日本では高度経済成長でサラリーマンが増えて、
人生、生き方の多様性が国として衰えている
人間ってかなりいろんな人がいる。

宮台
沖縄にいってちょんの間の取材をしてきた
売春でくらしている人が多い
特徴的なのは離婚がとても多い
顔がいい。子供がいるのが大半
ちょんの間やりながら子供2人とも医学部にいれていた人も
沖縄には血縁主義がまだある。
子供にかくしながらやり続ける

沖縄は、経済的には負け組のはず
でも実存に注目したとき、どっちが買ってるかというと自明
都会が負けている。
我々がつまらないものさしをあてがわれているという可能性がある


そのものさしは換えることができるはず
でもそれを言うと、雨宮さんから言うと
本当の問題を見えなくするための言説操作ではないかということにもなる。

藤井
多様性というと、本当にないわけではない。
ジャニーズで背が低い人がいたり、お笑いがモテたり。
その上で沖縄がいいというのもそのひとつ
でも行き詰っているのも確か

宮台
それは、社会学的に有名なパラドックス
多様性がオッケーということになると
認めないという立場の人が救済されることになる。
市民権を得る。承認された。
じゃ、そこでも承認されなかったものはどこに行くのか
たえず包摂していくことは重要だけど、必ず新しい排除を生む。
そして、アフターの方がきつい。

藤井
流動性なものに依存する
それも難しい

何に対して責任をとるのか
結婚したら終わりか。
自分をしばらない
ネットが人を救わない、とわかっているのは
自分の選択でいつでも切断できる。
介入できない
宮台さんの解は自分を縛るものを作る、、ということでは?

宮台
第3空間、磯村英一が言っていることだけど。
たとえば、デートクラブ、流動性高い。
でも、そこにいくと昔からある匂い、空気がある
人に安全を適用するとすればそれしかない。
個別の人間関係ではなく、場を作る。


それをどう設計するの?
次から次へと部員が変わっても部室は変わらないというようなもの?

宮台
そう


論壇で自由論というのは活発で
結論は、人間何かに縛られると安全というもの
じゃ何に縛られるのがいいのか、という話で
それって解決になっている?

切通
彼にその場所はなかった
場所はあるけど、縛る、というか関係性がない


ただ、選べばいいだけの話
2ちゃんねるコテハンで書き込んでもいい。
いつの間にか自分の中に内面化される
ネットしかなくてもできる
加藤はそれを選べなかったということ
じゃあ、選ばせろ、勧誘しろ、ということになる。
最後は、選択できない地縁・血縁がないといけないということ?
最近、そうなのかな、と思っている
自分としては、流動性を求めて生きていきたいのだけど

藤井
加藤の話で大きいと思っているのは
追い込まれたというより、自分で負のエネルギーをとりこんで爆発した
地縁、血縁の話でいうと
淫行条例がでた、あと16歳以上は11時以降繁華街に出てはいけないという話
歌舞伎町の客引きなど条例がでた。
でも、繁華街はきれいになるけど、それでも繁華街に出てくる女の子は
殺される率がずっとあがりますよ、と。
厳しくすると、それか外れた人との格差がもっと大きくなる。
取り締まった街でそれでも出てくる子は殺されてもいい、ということになる。
どっちを選ぶというなら強制しない方だろう


それは、地縁とか血縁とかあった方がセキュリティが働くということ?

藤井
そうかも

宮台
政策決定は偶発性が高い
最近、石原都知事が携帯に電話かけてくるのだけど
イデオロギーも重要だけどでもやっぱり包摂が必要ですよ、
というと、じゃあそうか、と政策が決まってしまう
ロビイングをやってきて
イデオロギー闘争もいいけど、実際に政策に影響を与えるには
意思決定のある人をこちら側のコミュニケーションに包摂する


その包摂は、意味が違うのでは?w

宮台
そもそも
(落ちた…)



評論はAについて考えている人を強化するのは役立つけど
BをAにするには評論はほとんど意味がない
最近すごく強く感じる
特に、ネットは立場を強化することにしか働かない

宮台
ブログ論壇などみんな包摂の機能を果たしているからあるべきだと思う。


ネットは、民主主義のアリーナを実現しているのは確かだけど、
自分に見たいところしか見なくなっている。強化するだけに働く

切通
加藤は、秋葉について調べたことを買い込んで
みんなが面白いといっていた
自分の場を作ろうとしていた。でも彼の書いたことに対する無反応を
みると、それを持ち得なかったということでは


そこは、意見が違っていて
彼でも、ただブログを作ればできたはず
成功してて、それから弾かれたというなら通じるけど
彼は一方的に拒絶した。
ネットの包摂が彼を救えなかった、ということにはなならない

切通し
でも彼は実際行動してやろうとしていたけど
結局彼はそれに乗れなかった


ネットでは、繰り返しやったらファンがつくもの

切通
加藤にもファンがいた。けどそれでは満足できなかった


さっきの話に戻すけど。
今まで明示的には言ってないけど、
宮台さんが言っていることは民主主義がいらないということでは。
自分の強化するためにしか言論ができない
実際に動かすにはロビイングということだと
民主主義はいらないということでは?

宮台
ラディカルデモクラシーという発想は重要だと思っている
みんなで合意形成するための民主主義はいらない
バターナリズム、おせっかい
それがあればいいの、ということ。
政策決定にはパターナリズムは必要、かつ開かれている必要がある。


その議論も知っている
で、ムフがその後言っているのは
アリーナで、シングルイシューを議論することがかろうじて意味を持つのは
闘争というアリーナで行っていることでしかない

宮台さんにききたいのは
政治的なアリーナが必要かどうか、信じているのか?ききたい
いらないと言っているようにしかみえない
たとえば石原さんと政策を決定しているのは議会の場ではなくケータイで。
民主主義はお祭りだからいらないという話
リアルポリティクスにいらないというのは確かに
それだと言論はいらないということになる。

宮台
明治期の思想家について調べてきた
そこで彼らが言っているのは、道具主義、国民が幸せになるために何を使うかが重要。
イデオロギーではなく
ルフもそういう方向にきている


つまり隠している?w

現実には一部の人間でだけでは決定できないこともある
ネットがいい例
ネットで決まっていることは一部の人だけで決めたことではない

宮台
(隠しているということで)いいと思いますw
与えられたプラットフォームで最適化するのでいっぱい
合成の誤謬
プラットフォーム自体を変えると、民主主義な決定とは食い違う


(最近、宮台さんと意見が近くなってきた?)
ある種のエリート意識は必要だけど、宮台さんとは違い
1つのことに詳しくて他に無関心なエンジニア的なエリートをどう集約するか

切通
だと加藤的には、
そこに含まれない自分は、と不全感をより強く持つことになるのでは


結局、負け組でも楽しく生きてけるよ、というメッセージしかないのでは

宮台
おれもそう思うよ
1こ1こ改善していくことはできる
でも格差がすごく大きいのも確か
古来ずっとそうで

ここで雨宮さん月乃さん登場
雨宮
実際それでいい

藤井
格差社会の問題ではないのでは
非正規労働の運動が加藤を利用しているという批判もある

宮台
政治運動としてはむしろ利用しつくすべき

雨宮
プロレタリアートは文化運動でもあるので
自分でやっていくというのでいい


いまのロスジェネの人気の元は赤木さんの論説
それは嫉妬の論説
同じことやっているのにあいつのが儲かっている、という
彼はビルゲイツにむかついたりしない
同じことやってきたのに差があるのがゆるせない
でもそれは絶対に解消できないと思う
それを支えているのは、偶然性に左右されている自分の生が許せない
という嫉妬の言説がある

雨宮
楽して給料かせいている正社員がいる、という身内の問題をとりあげる人がいる
そういう問題じゃないのになーと思ってやっているのだけど

宮台
イデオロギーが正しいかどうかはともかく
相互承認
赤木さんも、いろんな人とあって、承認されて、ガスぬけた。
加藤事件に対する彼のコメントはえらくピンボケなものだったけど
それは彼が幸せになった証
場を提供することが重要
社会運動によって社会はほとんど動かない

雨宮
団地に前にいるだけで通報される中学生がいる
場を持つこと自体が難しい。
今のロスジェネの講演会、飲み会も含んでいる。
そこで互いの話を聞きあう(?)


イデオロギー崩壊のある
アイデンティティポリティクスでしかなくなっている
自分の承認をめぐる闘争
それで始めた人は、持続可能ではない
承認されると終わる

昔から言われてきたこと
ゲイ・レズビアン運動
最初は性の多様化とかの運動をしていたのにいつのまにか
ゲイの結婚を認めるとか、税の優遇しよ、とか自分の承認をめぐる要求をしている
最近の赤城さんから始まったロスジェネ運動は
そういう隘路があるのでは

雨宮
今現場で議論になっているのは非正規の若者
しかし実際に議論しているのは正社員だったり年とっている人だったり
メンヘラーの人とか。

ーーー
第2部

切通
先ほどの赤木さんの話。本出して嬉しいけど、その後20年30年でその承認だけで生きていけないよね。
そこでガス抜きしてってだけで
承認というだけではなく次のステージがあるのでは。
食っていくためにはそれだけじゃたりない


ベーシックインカムとして8万ぐらいくばるとか、それしかないのでは
自分が承認されればいい
される相手を選ぶのは意味がない
自分のコントロールではない
上野千鶴子が今の家庭の問題に対して、子供を交換可能にするような社会を作るという提言を(?)
しかし、交換可能なものにするというのはとても難しい

金と承認の問題は切り離して考えるべきでは?

切通
いや、切り離せない
お金は労働の対価として払われるべき


ある程度まで労働と承認をある程度切り離すべき
最低限のレベルでだけど。
生きづらさには、経済的なものと心理的なものがあるけど

雨宮
今だとトイレ掃除など好まれない仕事が給料も低かったりとバランスがとれていない
ベーシックインカムが払われるようになったら
好まれない仕事に正当な対価が払われるようになるのかも

月乃
そもそもあのような事件が起きないようにするにはどうするの?

藤井
彼をとめるのは無理だったと思わないでもない
負のエネルギーを自ら集めて、自分を追い込んでいった
その後、模倣版がたくさん起きている

月野
硫化水素の自殺も連鎖していった
つながっていたいという人の欲求
死ぬ間際でもつながっていたいというのはあるのかも
ぎりぎりの人がたくさんいるとして、それがつながっていけば救えることもあるのでは
簡単な言葉ででも伝えることが重要


難しい言葉で救われる人もいる
人によって違う

切通
第1部では言えなかったけど、加藤に対して共感を口にしたかった
彼の使っている言葉は自分の中に入ってきた
愛されたかったのではなく愛したかった、というのはすごくきた
二次元でもいい


ここ10年ぐらい世の中きびしくなっていて
犯罪者を社会で意味づける必要がなくなってきた
通り魔が増えてきた。
でも、社会はときどきこういうやついるよねとスルー
あの意味を世の中に訴えるには、難しい
共感するよ、では弾かれて終わりになる

切通
共感するということころから始まらないと


インテリは共感しない人がおおい

月乃
加藤には、かつての自分と同じだと共感したが、
同時に自分の家族がもし被害者になったらと想像したら許せないという方向にも共感した

藤井
わからないのは、無差別でなく弱い人を選んでやっていること


一番弱い人を選んだというのもでない
町の交差点、かなり適当に選ばれている

藤井
霞ヶ関ではなく、アキバに行くことには共感(?)

切通
お金もっている人にいかないというのはすごくわかる
おたくに入り込むことは出来ていて、愛する対象があって、
世間一般の見方からみたら幸せではない
彼から見たら少し上。
それに対して嫉妬するのはよくわかる

月野
自分も人を無差別に殺すとしたら、駅前で殺すイメージがある
実際にコピーキャットも駅前でやっている人が多い


それは議論にならない
同時に、被害者に共感して加藤を殺せという人もいる
ちなみに自分としての感想は、キター(・∀・)だった
いつかアキバで事件が起きるだろうとずっと思っていた
ブログに書くわけにはいかないわけだけど。
なぜかというとアキバblogチェックしていて
アキバがどんどん変化していって、コスプレイヤーがつかまったり
普通にリア充がいて。
万世橋警察署はすごくきびしい
ある官僚があるイベントを政府主催でやるために秋葉でやりたいという
話があったけどできないと。
公安的な厳しいというのがある。

藤井
ナンシー関が、いつかタモリをいいともで刺すと思ってた、ということ
もういいともでそういうのは起こらないと思った


アキバの劇場性は特殊
何か起きたときネットのブログで報道される
それをもくろんで事件を起こしたり
虚実が入り混じっためちゃめちゃな空間になっていたというのがある
今回ほどの大事件とは思わなかったけど、いずれ変な事件が起きて
歩行者天国が閉鎖されるだろうと
子供がいくと、ローアングラーがばりばりやってくる。
それこそが熱いと思っていたけど、嫁さんに止められた
そんなことを言っている間に事件が起きた

切通
それを起こす磁場は何?


ネットとの結びつきが強かった
リアルに全国に中継されている
彼は、突っ込む直前、ケータイで中継していたわけだけど、
自分がつっこんで、ぶーんてやるところも中継したかったのかも

月乃
殺したいということを言うとそれが抑止力になる
そういう場があれば殺さなくてすんだのでは

雨宮
メンヘラー側の言説と思想の言説、
どっちも同じ生きづらさも抱えているのに
言葉が通じない問題がメンヘラー業界的にもある

切通
じゃ、彼の生きづらさは何?

雨宮
彼はメンヘラー的な言説と思想の言説のどっちで救われたの?


彼の救いを考えるのなら裁判を待つしかない

切通
じゃ、彼のような人がどのように救われたのか

雨宮
ロスジェネに関して、あの事件でキターと思ったのは
労働組合のMLに入っていると取材がくるわけだけど
事件で、日研の派遣が事件を起こしたと聞いたとき、
どきっとした。
その人だけじゃなく、ネットカフェ難民の人をみていると
トヨタとか村田製作所とかの派遣の人が多かったから。

月乃
給料が少なくても、どうやって自分が救われるか、よく生きるか
ということをずっと考えてきている

藤井
生きづらさ、という言葉が90年ぐらいに出たとき
すごく反発があった
そもそも生きづらいという言葉があることが生きづらい、むかつく
生きづらいだなんて、いまさら言うまでもない。
赤木さんが希望は戦争と言っている
10年ですごく損している、というのはわかる
でも、もっとつらい世代もある。戦争の世代。
戦争ならはっきりしているというのもある。

切通
みんな生きるのは大変なんだ、ということを例えばたけしが言っていたりする
けどそれとも違う


同じように思っている人がいるんじゃないか
マスコミがフレームアップしているところがある
ようやく出てきた生的現実だから


世界中により生きるのがつらい人がいる。
どこまでを救うかというのは程度の問題
生きづらいということを世代的現象として言ってどうするというのがある。
個別にはできる。では環境を変えるにしても、どうするのか

切通
議論するとかじゃなく
生きづらさ、という言葉から何が立ち上がるか、が問題

月乃
言葉自体が手垢がついていても、その言葉を介してつながることもある
それで使えるのならいい
生きることがつらいのであって、それで何かが変わるのではないというのは正しい
でも、生きづらいというのが確かにある、というのがぴんときた


でもそれが世代としてとりあげるとまた行き詰る
上の世代にはとくに

藤井
最近キャバ嬢の話をきく。そこでロスジェネの話を聞く。
みんな甘えていると答える
でもうちらは病むんだ、と。
内容は個別。みんな違う。

質問:
内田先生が言っていたのは、下関で起きた事件と同じだと、彼自身がコピーキャットだったりする。
彼自身の中に本物とつながりたいけど、自分の中にコピーしかない
それを壊したかったというのが彼の犯罪だったのではないか、と。
二次元的な世界、動物的な世界を壊したいというのがあったのではないか。

切通
その意見は、宮崎駿が言っているのと同じ
サカキバラの事件が起きたとき
刺したりするやつは実体がない、と彼は言っていた


その質問には答えはひとつしかない
自分のグッドエンドを目指すしかない
人生にはパラメータがあってその中でどうするか
彼がしたのはリセットしようとしたこと
自分探しでも同じことがあった
(リセットは)できないんだって
自分の過去はもう変えられないもので。いかにそれを受け入れるか

雨宮
その場合だれかを踏みにじっているのではないか?と
躓く人もいるのでは?


踏みにじったことを後悔することと、踏みにじるのをやめることとは違う

これはあまり言わなかったことだけど
自分は特任教授などには就いているけど、大学に正式に教員として採用された
ことがない
自分ではそれを誇りに思っている
フリーランス
正社員が搾取しているという意見ではこの国では動かない
個別に対処していくしかない。

雨宮
たとえば貧乏でも生きていこうとすると
正社員になりたいとして、そこで正社員を増やすことかそうでなくても
生きていける社会を作るか、