http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1251.html

メモ。

「原郷」と「異世界」の歪んだ関係こそが昨今の日本なのであるという判断がある

そして、アニメは「原郷」と「異世界」とをショートカットでつなぎ続けてきた。スーパーフラット。「千年女優」はかなり自覚的にそれをしていた。「マヨイガ」など日本人の原風景にもつながっている。あるいは「借景」のような空間設計の文化と。

たとえば「ディストピア、カーニバル、ノスタルジー」などと名付けたほうが英語的日本の実情に合う。

これらモチーフのうちの2つが結びついた作品、一方から他方への大きな転換を見せてくれる作品が、名作として評価が高いかも。カーニバル→ディストピアだと「ビューティフルドリーマー」とか、ノスタルジー→ディストピアだと「オトナ帝国」とか。1つのモチーフ内でのディテールの緻密さ(あるいは「小さな物語」)から、複数のモチーフを結ぶ構造の壮大さ(あるいは「大きな物語」)への、転換のダイナミクスがカタルシスにつながるという構成。

日本のアニメにおいて、とりわけディストピア性とゾーン性が格別な意味をもってきたことは強調しておいていいことだろう

ゾーン性にも2つあるように思う。1つは、世界が変容する特異点=辺境。もう1つはやがて滅ぼされるべき「ムラ」。「原郷」や「異世界」を「中心」に設定するか否かで大きく異なる。「ビューティフルドリーマー」以降、脱中心化というモチーフはどんどん減っている。それは丁度、http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1248.htmlに書かれている「首都の衰退」とリンクしているんだろう。

本来別の空間にあるゾーンを持ち込んで空間性とか距離や構造をキャンセルする、というのはもともと日本の文化に遺伝子として組み込まれていて、アニメもまたそのような意識を拡張する方向に進化したということかね。アニメに関わらずARにせよケータイにせよ、現実をキャンセルする、他のゾーンへのショートカットを提示する、という意味合いが他の国よりも強い気がする(関連:サイバーパンクと未来への想像力 - END_OF_SCAN)。



(追記)丁度出社時に読んでいた「ポストメディア論」の第14章「The Skin of Culture」(この言葉はそのまま本書の原題に使われている)で、同じような話が出てきた。

大規模な社会変革の圧力にみまわれたとき、少数派の文化は、そのアイデンティティの強さによって、同化、融合、孤立、攻撃といったパターンを示す。日本は、第二次世界大戦で攻撃性を爆発させたあと、社会変革への新たな対抗策として「脱皮(モウルティング)」を思いついた。脱皮なら、文化の外観は変わっても中身はそのままだ。
(中略)
文化の中核にある固有の要素が影響を受けないという点で、日本人が採用した変身戦略は、「変異(ミューテーション)」の対極にある。すなわち、「脱皮」である。日本人は新調した洋服をはおるように、テクノロジーを身につける。

文化の外観と中身とを共生させるプロセスにおいて、「ディストピア、カーニバル、ノスタルジー」「ゾーン性」は大きな役目を果たしている。日々新しい「脱皮」の文化デザインを身に着けるのに、確かにアニメは一役買っている。