足し算の創作と引き算の創作

昨日「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」を見に行った。確かに二次創作として見たら面白く、1つの作品として見たらひどい。というか二次創作としてしか価値がなかった。では。今オリジナル作品で骨のあるものがあるのか、というとよくわからない。作品として「Fate/Zero」と「クリスタルスカル」との間に違いはないように思える。
創作の形として、引き算の創作がどんどん少なくなり足し算の創作ばかりになってきている。引き算の創作とは、あるゴールに到達するよう作品を構成する要素を逆算で引いていって創るやり方だ。一方足し算の創作とはゴールに到達するまでに要素を足していって作品に肉付けをするというやり方だ。勿論どちらか一方のみで作品が成り立つわけもない。しかし、昔に比べて引き算の創作が卑小になっている。
引き算の創作では、どの順番で引くかが作品に立体感を与えるキモとなる。Aの次にBを語ることが重要となる。しかしAを十分に理解できないとBを聞く意味がなくなる。結果、最初に大きく誰にでもわかるものを引いてしまう。その上で何を足していくかで作品の違いを出そうとする。「セカイ系」では、世界が終末を迎えていて主人公あるいは傍にいる美少女が世界を左右する力を持っている。読者(や作者)がそのような世界を望んでいるのかもしれない。同時に創作として、そのような世界観なら何を足し算しても作品が成り立つ、という都合のよさもある。
クリスタルスカル」もまた同じだ。ロマンスもアクションも謎も、同じ質量で作品に散りばめられている。親父の写真を寂しそうに眺めるのも、ラスト帽子を拾うのも、オヤジどもをくすぐるクリシェだ。別にそのことを非難しているのではない。ただ、ネットも含め、コストパフォーマンスのよさから足し算の創作に流れていくこと自体を悲しいとは思う。
かつて、コンテンツが自由にマッシュアップできると本当に幸せなのか - END_OF_SCANと問うたとき、egoscopeさんが(ページは閉じられてしまったようだけど)マッシュアップはアマチュアが創作を学ぶのにいい方法だ、というようなことを書いていた。しかし、どんなにマッシュアップを連ねても学べるのは足し算の創作だけだ。足し算の創作と引き算の創作は根本的に違う。そして、足し算の創作はバリエーションが少ない。世界から何を欠落させるかは個性が大きく寄与する。また欠落はそれぞれが大きく異なって見える。トルストイの『アンナ・カレーニナ』冒頭、「すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である」の通りに。これを創作に関してもじると次のようになるだろう。"すべてのマッシュアップは互いに似ている。異化はそれぞれの仕方で異化されている"。ニコニコ動画で、ドナルドネタとフタエノキワミネタと、吉幾三ネタに創作的な違いを見つけられた者はいるだろうか。

しかし結局、一次創作物もマッシュアップと何ら変わらなくなった。インディジョーンズですらソープドラマと変わらなくなった。「面白い」だけの作品を創るなら、製作のプロはいずれ駆逐されるのだろう。