思想地図シンポレポ覚え書き

思想地図シンポジウムレポート - the deconstruKction of rightを読んで。あまり内容はない。
宮台は全体主義的で、東や鈴木は還元主義的で、2つの山の谷間でどちらに登れるか、という話になっている。でもその谷の中にさらに局所的な谷があるのが実態で。マクロな谷では「エリート」がキャッチャーをしているけど、ミクロな谷ではキャッチャーが見えない。だから落ち続けるしかない。なんか「不気味の谷」ちっく。社会の中の個の認識が2つの間で引き裂かれている。

宮台の「敢えて」では人を救えないよなぁ。裏切られたときダメージが大きい、個人によって「敢えて」にコミットできる度合いが違う、という2つの理由で。結局、アキバ事件の犯人のようなものを産み出すだけだ。結局<帝国>には勝てない。まして「アジア主義」なんて本人が怪しいと思っているものをツールとして使えるわけがない。

とはいえ、宮台が反論するように、モラルの基盤がなければ(条件なしの)友愛とか歓待とかは生まれない。容易に<帝国>に懐柔されてしまう。

エリートがキャッチャー、ファシリテイターになる、ではなくキャッチャー、ファシリテイターが(パートタイム)エリートになる(断片化した世界をつなぐメタな知を次に継承する者として振舞う)しかないのかなぁ。
しかし、2つの山をパートタイムに行き来する、というのは負担が大きい割りに報われないので、システムとしてはまわらないだろう。

鈴木の「貧しさの中の共同体」というのはありだなぁと思う。境界を可視化するにはそういうのしかないんちゃうかな。あるいは、小さなキャッチャー、小さなネット。

姜:設計主義は国家社会主義と一緒なのか。フランスでのフランス革命のときの議論と似ている。それは理性信仰があるのかないのかだ(東:強くうなづき、「そうですそうです」)。「主権」が重要なのでは。911以降、公敵がいなくなった。「若者には気をつけろ」と週刊誌が書いていてひどすぎる。ネグリの言う:国家=主権ではない、戦争というのを国家の構成的要件にしなくてはならなくなっている。市民社会vs国家ではない。もっと層があるのではないか。

姜:ルカーチ。断片化はアマチュアと繋がる。アマチュア的な人が街頭に出るのが、コミットするのが「楽しいことである」というのがあればいいのでは。加藤で重要なのは「味方がいない」。物質的状況を別として、つらいのでは。「味方がいる」というのはattentionをうけて、他人にもattentionを持つようになる。どうやって味方を作るか。

市民社会vs国家でない他の層=味方は、愚連隊にしかならないのかもしれないけど、暴発した個人がテロリスト並みに社会の根幹を揺るがしうる現代では、まだその方が総体的に見れば平和なのかも。でも、やってることは中世の時とあんまり変わらないような。

全体を持ち上げて谷でいることが苦痛でないようにするのも無理。そうすると、谷の深さを総体的に小さくするしかないか。<帝国>とマルチチュードとが互いに相手を疲弊させて共倒れになるようになれば、2つの谷間にいる人も生き易くなる、とか。