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「面白い」が殺したもの

関東に来て10年になるが未だに馴染めない(そして絶対に馴染みたくない)言葉が「面白い」だ。
「paraseleneくん、面白いね」と言う時、何を面白いと思っているのだろう。この「面白い」は"interesting"でも"amazing"でも"inspiring"でもなく"curious"だ。概ね嘲笑ぎみに発せられるこの「面白い」は、あなたを珍奇というカテゴリーに分類しますというレッテル貼り宣言になっている。丁度、養老先生の「バカの壁」状態だ。相手を卑下するとき関東では「バカ」を使うが、関西では「アホ」を使う。「アホやなぁお前」という言葉は、あなたを突っ込み対象にするぐらいの意味だ。突っ込み内容は人によって異なる。関西ではアホな人がどのようにアホか識別する突っ込み能力がリテラシーとして文化に組み込まれている。アホの違いを愛するのが関西である。一方で、関東でバカの違いを区別することはしない。「面白い」がそうであるように。関東ではバカは愛されない。同じ様に、違いを言語化できないから、理解できないから、「面白い」という言葉を使う。馬と鹿の区別がつかないように。「面白い」は、あなたを愛していない、理解することを放棄した、ということを意味する。
「面白い」が他者の無理解を意味し、「面白くない」ことが社会からの脱落を意味するならば、どこに居ればいいのだろう。下の世代はそれでも、「面白い」と「面白くない」の中間で身内万歳を叫び異なる空気を排斥することで居場所を作れている。ポスト団塊とかロストジェネレーションとかは、それも出来ない。マスコミによって「面白い」ことを強迫づけられ、あらゆる種類の「面白い」を探し、あげく裏切られ、何も信じるものがない。信じられる残された価値観は、デストロイだけである。愉快犯と思想犯は他者を無差別に傷つけることで己を再中心化するが、「面白さ」が上のように作られる現代の日本においてこの2つはほとんど地続きである。北田暁大の「嗤う日本の「ナショナリズム」」を思い出す。宮台らが言うようには、アイロニーは救いに繋がらない、つーことだ。
「ゼロ年代の批評の地平 ―リベラリズムとポピュリズム/ネオリベラリズム」 - END_OF_SCANのイベントで、動物的であることと人間的であること両方を肯定したいという東浩紀が、周囲に「何がしたいの?」とフルボッコにされたのを思い出す。「何がしたいの?」という問いに答えられないからこそのロストジェネレーションなわけだけどorz、それは「面白い」に依存し「面白さ」を象徴化してきた末に、自分の中の何かを切り離したことによる報いなのだろう。