他山の石で研けない

エスタブリッシュ層が言葉を尽くしていないのと同じように、ブロゴスフィアもエスタブリッシュ層に向けて言葉を尽くしていない、とこれまで何度も書いてきた。例えばコピーワンスのパグリックコメントについてダメだしをした(コピーワンス反論への想定反論 - END_OF_SCAN)。

既得権益を持つエスタブリッシュ層が動かないのは当たり前で、ネットのあちら側が知恵を振り絞って彼らを動かさないといけないはずなのに、やっていることは彼らと同じようにDISって遠巻きに馬鹿にして、肝心なことはお前ら考えろと丸投げしている。どんだけガキやねん、と呆れたくなるような言論が「泥」関係でも繰り返されてまたぐんにょりしている。その中でもアンカテの人のMudコンピューティングとかいうネタはちょっと酷すぎる。ネタが秀逸ならまだしもブクマの反応も微妙で、なんつーか憐れみさえ感じる。このような誰の心にも届かない優越感ゲームを垂れ流しておいて、「業界の外へ向けて語る言葉を持つ気がない」だなんて片腹痛い。



ネグリの「芸術とマルチチュード」を読んでて、彼の革命家としての態度に疑問を持ったことがある。『帝国』などへの反論・疑念に対し、ネグリの態度は以下の通りである。

すなわち、認識のこの第1のレヴェルは、(…)したがって、大きなリスクを伴ったひとつの「賭け」に存しているのである。そしてこの賭けは必然である。ネグリは革命家なのだから。

しかし、彼は本当にリスクを負っているのだろうか。ネットや街の無名の声に後押しされた事大主義なだけなんじゃなかろうか。数の論理で自分の論理の乱暴さを覆い隠しているだけなんじゃなかろうか。およそネットの反エスタブリッシュな姿勢もまた、ネグリと同じくリスクを負わない革命であるように見える。体制を糾弾しながら、自分たちが彼らと同じ暴力的な手法をとっていることから目をそむけている。相手を他山の石として己を研くということをしない。エントロピーが上がる分ネットの方が始末に終えないとさえ言える。



上を書き終えてから「SI業界の老害が若手と下請けを蝕む理由というエントリーのタイトルを見てまたぐんにょりした。"老害"という挑発的な言葉を使い、アジる必要が本当にあるのだろうか。「外へ向けて語る言葉を持つ気がない」んだろう。少なくとも私はこのタイトルだけで嫌気がさした。

anotherさんから「essaさんは本質的に扇動家だと思ってる。ルサンチマンドリブンだし」とコメントをいただいた。私が思うのは、彼らのようなアジーテータこそがネットの進化を遅らせている、ということだ。ブロゴスフィアに必要なのは、エスタブリッシュ層に届く言葉を研くか、多様性を増やすことだろう。これまで見る限り『アルファブロガー』らのアジはそのどちらにもマイナスに働く。ルサンチマンは権威側の言説に対抗するものとして大切だけど、それだけじゃ世の中は変わらない。ルサンチマンがネットと己を重ね合わせ、自我を肥大化して、書き散らした中二病のようなエントリーで誰かを動かせたとして、それは中二を増やすだけだろう。
総表現社会において表現できないもの - END_OF_SCANで、「総表現社会での表現は、通常の散文表現以上に「人々をコミュニケートさせないようにする」ことがある」と書いた。この手のアジは人々をコミュニケートさせないように働く言説の最たるものだ。それはエスタブリッシュ層(例えば団塊の世代とか)が何度も犯してきた過ちだったりする。そのことをこそ他山の石としないといけないんじゃなかろうか。