森博嗣的な天才の終わり

犀川萌絵シリーズの頃の森博嗣は本当に好きだった。勢いあまってN大で開かれた特別講義も聞きに行った。その"講義"が始まる前に配られたレジュメに、彼の思索の断片が書き記されていた。その中のひとつに、人の人格はこれからオブジェクト指向的に振舞うように進化していく、というような内容のものがあった。

人間の思考プロセスと行動形式は、まったく無から作り上げられることはなく、クラスを継承する形をとる。世界が複雑になるにつれ継承するクラスは一つでは済まなくなる。ニューアカな人たちの活動は、思考のクラスを再定義する試みだったように感じる。学際的な知識を統一的に扱う上位のクラスを発見し、そのインスタンスとして思想を語る。より優れた人は、他の人とは違うクラスを発見していたり、異なるクラスを状況によって即時に切り替える。森博嗣の作品に現れる天才は、それをさらに推し進めた姿をとっていた。思考のモデルと人格とが合わさったクラスを複数持っていて、それを使い分けることが天才に必要な資質として描かれていた。

しかし、suikyoさんが知識 - behind the counterで指摘するように、Web2.0の発生を境に知というものが明らかに変わった。それとシンクロするように、優れた人が持つべき資質も変わってきた。必要なのはクエリとインデクスであり、適切なクエリを設定できる人やインデクスを高速に処理できる人が優れた人になった。疎結合可能なAPIを持っている人が使える人になった。入力ごとにクラスを持つタイプの天才は、「すべてがWebになる」世界ではプレゼンスを持たない。

森博嗣が小説を書くのを辞めるのは、彼の描いたような天才を世の中が必要としなくなりつつあることと関係なくはないと思う。百億万の(googleな)インデクスを華麗に処理する情報処理技術が知を飲み込んでいく。天才的な探偵や天才的犯罪者もまた、その波間に消えていく。


そういえば確かに、世紀末を迎えて探偵(プライヴェート・アイ)は居場所を失っていった。ポール・オースターのニューヨーク三部作、あるいは村上春樹の羊三部作。迷路のような街の果て、ダンボールの積み上げられた部屋、養鶏場跡に建てられた小屋、ホテルのありもしない階――探偵たちはそんな街の最果てに行かなければ視点が入れ替わり世界が変容するのを見ることが出来なかった。
視点の入れ替わりにこそ「ミステリィ」があることを森博嗣は宣言している。

浮遊工作室(SITE MAP)に掲載されているエッセイ「ちるさくらさきよまれなるあとかきにのこれるあおはなつかしきあか」にある問い


 諸君はどこから来たのか。
 諸君はどこへ行くのか。
 諸君は何者なのか。
から

 作者はどこからも来ない。
 作者はどこへも行かない。
 作者は私である。
への読み替え。つまり、

 ミステリィはどこからも来ない。
 ミステリィはどこへも行かない。
 ミステリィは、あなたです。
だ。
ミステリィは今でも世界に残っているのかもしれない。しかしそれらは以前よりずっと小さい。ネットに、あなたは居ない。居るのは、私、私に似た者、私を含むクラウドだ。ネットに視点の入れ替わりはない。まなざしがないのだから。

「この世に不思議なことなど何もないのだよ」と京極堂が関口君に言う例の台詞を思い出す。しかし、例えば、「姑獲鳥の夏」や「すべてがFになる」のメイントリックは、ケータイを持つことが倫理づけられるような現在、カメラが至るところにある現在では、戯言のような事象であろう。

認識の断絶こそが認識の跳躍を生む。しかしネットはその断絶を許さない。そのことは、知のあり方、教養(人)の理想像、天才、あるいは、不思議、謎というもののあり方を確かに変質させている。


天才的探偵と知というと、「シャーロックホームズの記号論」という本を思い出す。ちょうど松岡正剛さんが、千夜千冊でとりあげていた。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0508.html

シャーロックホームズの推理は、演繹的な論理の積み重ねというより「当て推量」、アブダクションやレトロダクションに当たると言える。ここで言いたいのは、Web2.0の知はアブダクションやレトロダクションとまるで正反対だということだ。

知識が自己組織化された超冗長・超多重系の特徴量であるならば、アブダクションつまり連想による当て推量とはすでに組織化された知の間を行き来することだと言える。また、知のプロセスがクエリー→インデクスの入出力だとすると、レトロダクションとはインデクスからクエリーを導くことそのものである。

正剛さんは「パースはすべての人間の知的思考のなかで、このような推感編集こそが最も重要な思考方法なのだと結論づけた」と言う。Web2.0はその思考方法を困難にする。別にWebを捨てろと言っているのではない。進化の針は止められない。ただ消えていく知というのも存外大きいってことだ。そして少なくとも私にとって、これまでの知、知的活動、それを突き動かす過程の方がずっと魅力的だ。


というところで、正剛さんがでまさにそのことを書いていますね。シンクロニティ。

 コンピュータやITメディアがゆゆしいというのではない。それらに使われているわれわれが、ゆゆしいのだ。
 それよりも、ぼくはこのことをできるかぎり推奨するけれど、どんなメディアがもたらすものも「意味」であるべきなのである。しかしこの「意味」は、マンマシンの“あいだ”に生じるものであって、ハードにもソフトにも、残念ながらインターフェース・デザインにもあらわれない。それらは意味の強力な応援団なのである。「意味」とはそのものではない。

今のメディア(Web含む)にないものとして、以下をあげている。

  • 「リザベーション」(心中保留)
  • レヴァベレーション(残響)
  • 「暗示」
  • 「集合の知」(コレクティブ・インテリジェンス)
  • ハイパーテクスチュアリティ(間テキスト性)
  • 組み替えのアルゴリズム
  • 文字と図像を分けないで表示するシステム
  • 「ハイパーティネシス」(超適宜性)
  • 「インパーティネシス」(見当違い)
  • 「在点」(ポイント・オブ・ビーイング