CGMにおける身体性の拡張

もう少し話を広げると、例えばYoshio Nakamuraさんの「$@?M4V$N3HD%(J」にもあるように、メディアが身体性の拡張という考え方はよくある。実際ブログやSNSなどソーシャルメディアで自分の意識が届く範囲が、ネットという社会における自分の身体を規定している。上の話は、ネットでの身体性が、コンテンツという言語によって他人からの干渉を受けざるを得ない、ということなんだろう。天から与えられたような不可侵なものではなく。
とはいえ、今のところコンテンツの影響力に左右されるケースが多すぎる。自衛するためには自分の身体性を制限するしかない。最初からニコ動使えとか、それはそれで息苦しい。元記事の場合だと、暫定的に吹き溜まり空間(反応も含めた上であらためてニコ動にうぷするとか)を作るといいのだろうか。コンテンツの反応に応じて身体を拡張していく。
コンテンツホルダーが(ニコ動含め)他のメディアへの転載を許さないことが障壁になりそうだ。既存メディアのマルチウィンドウ戦略でもなく、今のネットの意見のような二次展開についての権利総放棄でもなく、その間の戦略が必要だよなぁ。リスクヘッジとしての二次展開。