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ソーシャルメディアと集合的人格

作家論ってありますよね。作品群の特徴や傾向を作者の生き方や性格に還元して説明するタイプの批評です。多くの場合、作家論は乱暴で作品そのものを正確に評価していない、と言われたりする。でも、どうしても作品よりも作家について考えたくなる。作品を否定的に評価するとき、作者の人格まで言及したくなる。作品の方法論やモチーフについて言及するより、人に言及する方がやりやすいんですよね。あるいは移入しやすい。作品の背景や思想を語るのに人を設定した方がすんなりと体系的に語れる。
ある思想や嗜好を体系的に語るのに、人格を設定するのは効果的な方法だったりします。デザインでいうペルソナなどもそうだと思う。
ニコニコ動画でコンテンツにつけられるメタなタグ、「おっさんホイホイ」「孔明の罠」「神動画」も同様の傾向を持っていると考えています。「おっさんホイホイ」だと、動画の傾向だけでなく同じように動画を楽しんでいる「おっさん」の顔が何となく透けて見えてくる(俺だけかもしれないけど)。「孔明の罠」だと横山三国志のくやしがる武将の顔が浮かんでくる(俺だけかもしれないけど)。
ソーシャルメディアにおいても、情報を統合しひとつのカテゴリーとして表現するとき人格に投影することは有効なんじゃないかな、と思います。統合したカテゴリー自体がソーシャルメディアの中の構成要素として振舞えるようにするといいんではないか。
去年のNewContextカンファレンスでソニーの北野宏明さんが、蝶タイ構造というものを紹介していました。無数の入力の状態を処理して無数の出力を生成するネットワークを扱う生命システムでは、処理する中間ノードが高々数個のことが多いらしい。多様な入力に対して、それぞれ異なる処理プロセスを用意するのはシステムとしてコストがかかりすぎる。ソーシャルメディアにおいても、蝶タイ構造になるようネットワークを構成することが、システムが継続するのに重要なのでしょう。そのとき、間をつなぐノード(=統合した情報)がネットワークの構成要素として振舞うことが必要なのかな、なんて思うのです。
この話をsuikyoさんに何となくしたとき、インターフェースにはロボット型インターフェースとアンドロイド型インターフェースというのがあるんですよ、という話をされた。予め定めたルール通り情報を提示するロボット型と、対話式で情報を随時提示するアンドロイド型、ということだろう。ここで考えているのは、インターフェースに集合的人格を投影できるよう、情報を統合する手段が重要なんじゃないか、っていうことです。情報を単に統合するだけでなく、それ自身が他のネットワークとの接続を指向するようにラッピングする。エージェントが自律的である"ように見える"ためには、相応の人格を設定しないといけないんじゃないかな。この分野の専門でもないし、技術動向をちゃんとフォローしているわけでもないけど、Semantic Webに必要なのはソーシャルメディアから浮かないことなんじゃないか、なんて思ったりします。