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異化のチープ革命

コンテンツを自由にマッシュアップできればこれまでの創作にはないものができる、という信奉は根強い。でも、なぜそうすることで面白いコンテンツが出来るのか、という問いへの答えはあまり見かけない。

コンテンツが自由にマッシュアップできると本当に幸せなのか - END_OF_SCANで書いたのは、元作品からの異化という要素って大きいよねってことだった。
これも何度か書いたことだけど、「ドン・キホーテ」以降の近代小説は「異化」に自覚的という点で二次創作的だと思っている。作品内である世界を描き、それからそれをずらす。それによって読者の日常を異化してみせる。現代になって異化はどんどん難しくなっている。前提となる世界はどんどん複雑になっているし、落差も小さくなっている。ニートやダメ人間を異化されてもなーと思ってしまう。森見センセーとか円城センセーを見ていると語りとか切り口から異化しない限り(「詩的言語」ってやつだ)文芸作品は成り立たなくなっている。一人の創作者が異化を描き出すのはほとんど限界になっている。

じゃあ、ネットでの自由なマッシュアップは異化を自動的に行う仕掛けになりうるか。少なくとも今よりは可能性はあると思う。その位、今のプロダクションは行き詰っているように思える。テレビが力を持っている限り、そのカウンターとなる作品は一定の異化効果を持つ。テレビの上のコンテンツは同じようなカラーを持つしかない。実際表現できることに制約があるし。マクルーハンの「メディアはメッセージである」という有名な言葉があるけど、そのメッセージがカウンターとなるメディアとの対比によって力が増すことがある。

問題のひとつは、効果が明らかにわかるようなモデルケースがなく、クリエーターのリテラシーに左右されることだろうな。型月みたいに二次展開がどういうダイナミクスで動いているかわかってないと何も起きない。手塚作品の二次創作募集みたいに閑古鳥が鳴く羽目になる。もうひとつの問題は、ネットや同人の表現に存外多様性がないということ。ウッーウッーウマウマなんてほぼ自動的に亜流が生み出されている。ちなみに大江健三郎は「小説の方法」で異化の意義を、「知覚の自動化作用からのものの解放」と書いている。アテンションエコノミーは多くの場合、知覚を自動化させる方向に働く。残念ながら。

異化が自動的になされるようなプラットフォームはできないものか。角川がYouTubeと提携する、など一つのプラットフォームにみんな集まるようになっているけど、異なる文化のコミュニティはそれぞれ別のプラットフォームでコンテンツを管理するようにした方がいいのではないか。vipperはコンテンツを作る側と消費する側とでエコシステムが出来ててうまく回っているけど、あのぐらいの規模で自活できるようなコミュニティがもう少しできるといいんだけど。終末思想溢れる70年代生まれのおっさんホイホイ板とかorz

まとめると、

  • 異化は近代以降の創作における大きな要素の一つである
  • 現代では異化を描くのはどんどん難しくなっている
  • 二次創作は、存在自体が一次創作物の異化になっている
  • 二次創作物に異化をアウトソーシングするような創作に可能性があるのではないか
  • ロールモデルの確立と、プラットフォームの確立が課題である

(追記: 3/14 23:27)
もうちょっと現実的なところから話をしてみる。異化とギャップはちょっと違うんだけど、話を簡単にするためにあえてごっちゃにする。
よくエロパロやコメディに対して、キャラを壊したと憤る原作者や原作原理主義者がいるじゃないですか。いや気持ちはわかるんですけど。でも、一方で創作者はキャラクタや世界観に奥深さを持たせるために、相反する性格付けをするわけですよ。開高健が「風に訊け」で喝破していたのは、対立する要素、特に清純と俗悪と併せ持ちそれを昇華するところにドラマがある、ということでした。「ロミオとジュリエット」に出てくるエロいばあさんとか。自分でキャラを壊しながら、他人がキャラを壊すのは許さない。このアンビバレンツは何だか不思議なことです。
世界観を奥深くするために異質な要素を持ち込むのは原作者の特権なのか。そうなのかもしれない。でも、特権化できるほど原作者はうまくやっているか、というと答えはノーと言わざるを得ない。狂言回しが類型的だったり、エロとかグロの出し方も覚悟決めてなかったりする。とゆーか、少なくとも自分の経験だけど、苦労の割りに報われない要素だと思う。
ならば、エロにせよギャグにせよ、原作を破壊すんなとエゴを振り回すのではなく、それによって原作の清純が際立たせるようにする戦略があるのではないか、と思うのです。
多様化によってオリジナルそのものの価値が上がるような仕掛けは不可能じゃないと思う。少なくとも、作品の中で「異化」というプロセスによって同じようなことをしているのだから。