コンテンツが自由にマッシュアップできると本当に幸せなのか

コンテンツのマッシュアップ(あるいはMAD)は、素材であることと創作性とを切り離し、元作品の創作性を除いて自分の創作性を加えることにある。既存のコンテンツのMADが面白いのは、元作品の創作性と組み替えた作品の創作性にギャップ(あるいは落差)があるからではないか。社会の中で人がある価値観を切り捨てたとき、その価値が大きいほど自分の達成感も増す。元作品の創作性を切り捨てることが、組み替えた作品を受け入れる満足感を大きく持ち上げる一因になっているのではないか。コンテンツが自由にマッシュアップできたとき、人の創造性は本当に向上するのだろうか? 元作品のコンテクストなしにマッシュアップは楽しめるのか。ClipLifeなどCreativeCommonsなビデオ作品はいくつもあるだろうが、みんながそれを編集しても違法なMADの面白さには到底たどり着かないのではないか。

Jobsは腹を切って死ぬべきである - ダイミテイ

そう、自分がほしいのは自由なのだ。コンテンツを切り刻んだり、編集して別のメディアに持っていったり、とにかく Hackできる自由だ。Appleが牛耳っている限り、そんな自由が脅かされている気がしてならない。

とあるが、ことコンテンツのマッシュアップの喜びは、Hack精神よりもクラッカーとしての喜びの方がずっと支配的なのではないか。

Hacker原理至上主義が広く行き渡っているが、自分がどういうエコノミーで動いているかに自覚的でない自由ほど暴力的なものはないだろう。