次のコンテンツのために

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本人も書いているように新規性の薄い話ではある。みんなが言っているという事実にこそ本質がある。

2007年の末、世の中の人間は二種類に分けられる。コンテンツの終焉に気づいている人と気づいていない人だ。そして、この二つの人種はほぼ完全に相容れない。

創作性とは素材にあるのではない。対象をいかに切り取るかにある。ならば、現実世界を切り取った映像を編集することと、もとある映像を切り取り編集することとにどれだけの違いがあるだろう。
異なるレベルの創作性を含むエコシステムを作るとすると一次創作と二次創作とが入り混じる状態しかない。そのベストの形態はジャズのインプロビゼーションだと思っているのだけど、ニコ動はまさにその域に達していて、本当に「日本はじまったな」と言っていいぐらいだ。VOCALOID関係でいっても、「みっくみくにしてあげる」や「メルト」は、ジャズで言えば丁度スタンダードの席に収まっている。それを演奏しなおす他の作品がその変奏になっている。

コンテンツが終焉を迎えているとして、そこで必要となる技術は何なのだろう。この1年社内で取り組んでいたんだけど、上手くまわせなかった。既存のメディア産業のプレイヤーには新しいコンテンツにおけるエコノミーは理解できない。そんな奴ら相手にしちゃいけないってことなんだろうけど。じゃあ、キープレイヤーは誰なんだろう。どうやってビジネスを成立させるのか。
これまでのコンテンツを保有しているプレイヤーでないのは確かだ。AppleAdobeは米国が主力なので日本の状況にキャッチアップするにはちょっと時間がかかるかも。JStreamやアッカなどインフラ事業者はどこでビジネスを成り立たせるのかという問題がある。Googleは会社のミッションからしてクリエイティビティに目を向けることは少なそう。

いやもう、これからどうしようか考えています。

明日朝早いので今日はここまで。