「ケータイ小説」を外に追いやりたい人たち

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宮台 西村賢太はそうですが、話題作のケータイ小説『恋空』を出すとそれは関係なくなります(笑)。
主人公が輪姦されても彼氏が「守ってあげられなくて御免」と言えば一瞬で立ち直る。セックスをしたら
直ちに妊娠する。それをライバルに妬まれて蹴られれば直ちに流産する。好きな彼氏に別れを告げられて
消沈しているときに別の男が「俺でどう?」と言い寄ると「優しい人だからOK」とつきあう。
元カレは実はガンで、悲しませたくないから別れたと分かると「やっぱり元カレの方が好き」と戻る。
死んで泣いていた主人公が、最後のシーンで電車を降りると、お姉さんとお父さんとお母さんが
出迎えて「お帰りなさい」「ただいまー」って。
……中略……
宮台 そうなんです(笑)。しかも驚きなのは映画館でみんな号泣してるんですよ。どうしてこれで
泣けるのか分かりません。
どういう読みが正しいとかないし、女の子たちがどう読んでいるのかも想像はできないけど、ファンタジーの文脈で読めば「恋空」はオーソドックスな構造をしていると思うんだが。

しろうとさんはミニブログとケータイ小説 - 萌え理論ブログ


「リアルなもの」は、ミニブログにおいては場所性・時間性、ケータイ小説においては
身体性・暴力性として現れる。
と書いている。けれど「恋空」を読む限り、身体性・暴力性は主人公の美嘉もしくは彼氏のヒロの身体が損なわれる形で現れ、かつその事件を乗り越えるたび二人の関係が特別なものとなる、という構図になっている。二人のセックスもあるけど、こっちはあまり生々しさは感じない。むしろ魂の交流という感じ。

物語の構造を見るかぎり、身体性・暴力性は「リアルなもの」を表出させるために使われているというより、「受難」を乗り越え神性に近づくというオーソドックスな物語の方法論を利用していると理解した方が自然である。少なくとも、モバイル社会シンポジウム2006 - 未来心理研究会について - END_OF_SCAN鈴木謙介さんが指摘した、絵文字にみられるような"身体の脱埋め込み"、"身体性の再現前"とは趣を異にしているように感じる。


魔法の世界で主人公が特別な魔法体系に属しているように、「恋空」では主人公たちは受難を乗り越える強度を持っている。キモは、その受難が主となる読み手たち(つまり女子学生たち)の世界の境界に存在するものだということです。


死んで泣いていた主人公が、最後のシーンで電車を降りると、お姉さんとお父さんとお母さんが
出迎えて「お帰りなさい」「ただいまー」って。

この前にある無菌室でセックスは、まさに冥界下りというか彼岸に到達した状態なわけでしょう。ならば、物語の価値というのは、彼岸から日常に戻るそのダイナミクスで計られるべきでしょう。癒されるプロセスが描かれていないのは確かに不満が出そうなところではあるけど、そこが無いからといって物語全体をこき下ろすのは、ちょっと乱暴だと感じます。むしろ、彼岸から日常に戻ってきた主人公の快復をじりじり書くよりもすぱっと日常に戻る作品の方が多いんじゃなかろうか。

感情移入するのは、何もそれが現実の自分に近いからというだけではない。象徴化というプロセスもあるわけで。

私は「恋空」を特別な文学だとは思わなかった。オーソドックスなファンタジーの一つだと読むことができる。読み手を特別にカテゴライズしないと理解できない作品だとは思わない。むしろ、批判的な人たちは、自分に理解できないものを切り分け自分を安全な位置に置く、という防御手段をとっているだけに見える。それは全うな批評精神があるとは見なせない。

ところで、「恋空」の特徴として、人間関係を不透明なままにしておかない、いうのはありますね。主人公に干渉する登場人物は外見と性格付けが即座に記される。美嘉とアヤ、ヒロとノゾムと男女2人ずつが出てくるや関係の整理が行われるし、ヒロに彼女がいるかもという不安を抱くとすぐに「俺、女いねーし。」と関係が明確になる。彼女と別れていないことを知ってからの心の整理もあっという間。これはケータイ世代の傾向と関係しているのかもしれません。彼氏が死んで悲しんでいる主人公の心の整理が描かれないのも、同じ理由なのだと考えます。手法として書かないことを選択しているのだろうと。